明暦三年、関街道の問屋たちは、荷物の輸送について連印証文を結び取り交わした(史料編Ⅱ・五四八頁)。それは、板戸河岸(宇都宮市)、石居(石末)・原・伏久(高根沢町)、鴻野山(南那須町)、鹿子畑・金枝(喜連川町)、福原(大田原市)、蛭田(湯津上村)の問屋たち十四人の連印署名した協定である。
そこでは、次のようなことを約束している。
一、関街道をとおる諸荷物は、損傷がないように馬方、宿ともに心がけ、貫損がでたときの弁済は馬方に命ず、油断して宿が損俵を受け取ればその者の責任とする、
一、もし新道通りへの送り状が来ても、新道へは一切荷物を送らないこと、
右の条々の違反者に対しては、連判のものが共同で荷宿を拒否する、
と協定している。なお「新道通り」とは、具体的にどこを指すかは何も記されていないのでわからない。
この証文は、問屋の置かれていた当時の関街道の道筋をハッキリと示し、また荷物の保護と責任をだしながら、問屋が結束して旧来からの道筋を既得権として守ろうとしたものである。それに対し「新道」が誕生し、荷主が「送り状」に新道を指定するなど、従来の問屋として無視できないほどに新道の台頭が著しい状況を推測させるものである。
関街道とともに、台新田宿を通る道も、通称「辰街道」と呼ばれる古い街道である。この道は喜連川から下館へ通じるもので、鴻野山から台新田へと入ってくる。台新田宿は、亀梨村と上柏崎村が通りを境にして接して形成した宿の呼び名で、通りの東側か亀梨村、西側が上柏崎村であった。
寛永十六年(一六三九)、台新田を構成する一方の宇都宮藩領上柏崎村は、もう一方の天領亀梨村問屋の非法を訴える「目安」を提出した(史料編Ⅱ・五八二頁)。訴状は、近世初頭の辰街道と台新田宿の様子を伝えている。
台新田は、柏崎村と亀梨村が相談して、三十三年以前の慶長十二年(一六〇七)に新田の町立てをして駄賃馬継ぎを始めた。商人荷物の半分を向町(亀梨側)、半分を(上)柏崎側と定めて互いに問屋を勤めてきた。寛永十四年からは日数を定め、月の十五日を亀梨町、十五日を柏崎町で問屋を勤めてきた。
昨年になり、亀梨町問屋作兵衛、久兵衛が、亀梨町で二十日、柏崎町で十日とする、と申し入れをしてきたので争いとなった。亀梨町は、柏崎問屋担当分の商人まで抑えてしまうなど強行し、迷惑をしている。
と訴えたのである。
古い辰街道では、江戸幕府開設の直後に宿の町立てがおこなわれ、亀梨・(上)柏崎の二村から問屋がでて、荷物の継ぎ立てを行っていたことを伝え、両村の紛争は幕府代官に訴えるまでにこじれてしまったものである。
関街道の「新道」も、辰街道の「目安」の結果も、これ以上のことは何も判らない。ただ近世初頭から荷街道としての隆盛の様子を伝える一つの資料ということはできよう。