5図 貞享元年白河御城米輸送道筋関係図
特に近世初期に関街道が果たした最大の役割は、白河藩ほかの各藩城米の江戸輸送にあった。
白河藩城米は、関街道を経て板戸河岸から江戸へと送られたのであった。関俣村問屋が扱った白河藩廻米は、一度に八百駄といわれる程の多量であった(史料編Ⅱ・五六八頁)。先の元禄八年の奥州道中との争論も、この白河藩廻米の権益を巡っての争いであった(『栃木県史』近世四・六一七頁)。
貞享元年(一六八四)、この白河藩廻米につき連判一札が葛城村、関俣村に出されている(史料編Ⅱ・五六七頁)。これによると、従来の白河城米の搬送路は、恩田村・三輪村(小川町)を通り川井村(南那須町)から葛城村へと送られたが、前年から川井村から鴻野山村・土室村・文挟村へ通し、さらに今年になって塙村(南那須町)で馬継ぎをすると言いだしたので争いとなった。問屋衆が相談した末に、塙村経由はもちろん。鴻野山村通りも以ての外のこととなり、石末村等の仲介により、恩田村・三輪村・川井村の三か村は、以後「白河城米は申すに及ばす、商人荷物一駄も脇道を仕らず候」という誓約の一札を葛城村、関俣村に提出したのであった。
白河城米の輸送については次々と新しい経路が開発され、旧来の道筋、問屋と権益を争うようになる。このときの関街道は、新しい経路を脇道として否定し、葛城村、関俣村を通ることで決着したのであった。