荷物の継ぎ送りは、一般的には馬による搬送が行なわれたが、輸送路の事情によっては牛でも運ばれることがあった。
天保七年(一八三六)、関俣村から代官所に提出された紛争の示談書(花岡 岡本 仁家文書)には、板戸村、葛城村の牛による荷物輸送と、それが関俣村を通行していたこと、関俣村が牛の通行を拒否していたことが記されている。
差上げ申す済み口証文の事
一、板戸村・葛城村への牛による諸荷物が当村地内を多く通行し、村方の難渋のため問屋常三郎と掛け合いになったところ、板戸村より村方相手取り牛の通行拒否について御訴えにも相成るの処、この度、扱い人が立ち入り熟談仕り候趣意、右一件、双方篤と申し談じ候処、村方の儀、道狭く、田畑を牛が食い荒らし難儀につき、この度常三郎より金六両を村方へ道普請助成金に差し出し、もっとも村普請の儀はこれまでの通りに取り計らい候定、牛の儀は諸作食い荒らし申さざるように問屋より申しつけ、かつ諸荷物送りが差し支えの節は村馬数にて滞りなく継ぎ送ること、村馬荷物の不足した以外は、外牛馬相渡し申さざる様に相定め申し候、
右一件につき重ねて申し分御座なく候、後日のため仍って件の如し
天保七申年二月 今泉筋関俣村 五人組頭 栄 次
同 三郎右衛門
(中 略)
問屋 常三郎
組頭 瀬 平
同 伊右衛門
同村
扱人 八郎右衛門
今泉村庄屋
橋本与惣左衛門
御代官所様
牛が通るのは村にとっては難儀なことであった。牛は通りながら田畑作物を食い荒らすからであった。しかし問題はそればかりではなかった。そこで、関俣村では八郎右衛門と橋本与惣左衛門が仲介扱人となって、関俣村と板戸村平太夫、問屋常三郎が熟談のうえ証文を取り交わした。それによると、
① 問屋常三郎は、道橋普請助成金として金六両を村方へ渡し、村はその利子で道普請を行なうこと、
② 牛が作物を食い荒らさないよう問屋たちが監督すること、
③ 荷物が差し支えるときは、村の馬を出して継ぎ送りをすること、村馬荷物が不足のときは外の牛馬へは荷物を渡さないこと、
等が定められ、村馬の権益を優先しながら、牛の通行を従来どおり認めることで落着している。
このような牛による荷物輸送は他に余り見ない例である。地形が急な傾斜地で道路に坂道が多かったり、湿地帯であったことが牛の利用になったのであろうか。葛城から関俣にくる途中は坂道や湿地帯であった。