7図 旧石末村原問屋加藤家風景(石末 加藤智久家)
荷街道である関街道は、荷物の獲得をめぐってたえず宿と問屋同士の争いが繰り返された。それは荷主の意向を反映して、より有利な道筋を目指し、荷主の信頼を得るためであった。荷物の減少は宿と問屋の衰退をもたらすからである。これら争論は、新道の開発の結果であり、新しい産物の発展の様子を明らかにするものであった。
正徳二年(一七一二)、関俣村と石末村原の問屋の争論は、関俣村問屋が板戸河岸に送った荷物を、途中で原の問屋が抑えてしまったことから始まった。関俣村問屋五郎兵衛の未亡人は、次のように関俣村問屋の正当性を訴えた(史料編Ⅱ・五四八頁)。
① 関俣村問屋は、以前は五郎兵衛の元の屋敷で勤め、寛永五年(一六二八)に東原の新屋敷にでた。寛文六年(一六六六)に同村の七郎右衛門と問屋出入りとなったが、五郎兵衛の問屋が認められて決着した。
② 七十七年前(寛永十三年ころ)の伏久村との野境争論の際の幕府の絵図にも、関俣村米荷道とある。石末村の源左衛門は、その後の四十七年以前(寛文六年)になり取り立てた問屋である。
③ 本多下野守が白河藩主のとき、白河藩米を関俣通りで板戸河岸へ送る際に、重くて継ぎ送りが困難だったので石末村へ送ったことがあるが、その節は石末村源左衛門と関俣村五郎兵衛が兄弟であったからである。そのほかは白河藩御城米、家臣の御給所米とも、関俣村から板戸河岸へ付け送ってきた。
このような事情で、関俣村から板戸河岸へ付け送る荷物について、旧例を無視して荷物を差し押さえる石末村原の問屋の行動は迷惑である、と訴えた。
もともと関街道は、高根沢付近では鴻野山を通る「石末回り」の東回りの道と、葛城を通る「関俣回り」の西回りの二筋があったので、問題は複雑である。四十七年前(寛文六年)、十四年前(宝永元年)に続いて、正徳年間の大争論となった。