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正徳の関街道争論

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 右の正徳二年の争論と、それに続く関街道石末の原の問屋についての詳細な史料が、町史に紹介されている(史料編Ⅱ・五五二頁~)。その経過は、新道の開発や荷物の種類によって荷主はより有利な輸送路を要求し、問屋の荷物を獲得する駆け引きなど、興味のつきないものである。
 正徳二年に問題となったのは、関俣村が白河藩城米等の荷物を、荷主の意向によって関俣から途中の宿の継ぎ立てなしに板戸まで一気に送る「付け通し」をしたところ、石末村内の原問屋が異議を唱えたことに始まった。関俣の問屋は、原の問屋が無法にも荷物を抑えたと言うし、原の問屋は、関街道は前々から鴻野山、石末を通っていたのであり、脇の道から大量の荷物を送られたのでは迷惑と主張した。白河廻米は関街道の主要な荷物であり、議論は平行線をたどっていったようである。
 翌三年になり、板戸村・大谷村・氏家村の庄屋が仲介となり妥協が成立した。白河藩米については、関俣村は一駄について「寄銭」という口銭を一銭ずつ原問屋に支払うこと、また、たばこ荷物についても同様な妥協をし、寄銭を支払うことになった。結局、荷主の要求である板戸付け通しを認める代わりに、関俣の問屋は原の問屋に寄銭を支払うことになり、問屋同士で利益を分配することにしたのである。
 同三年、こんどは前高谷村がたばこ荷物を板戸河岸まで付け通したことから、原問屋が荷を抑え争論となった。これは急ぎの商人荷物ということで、葛城村から前高谷村で馬継ぎをして板戸まで付け通そうとしたのである。この訴えは宇都宮藩の代官により、先規の相定めの通りとして、原問屋の言い分が通っている。
 正徳四年になると、棚倉藩米の輸送について争論がおこった。棚倉藩米は昨年までは鹿子畑から鴻野山、石末、板戸河岸の道を取っていた。今年になると、葛城から前高谷を通る新道を通るようになった。原村問屋は、この道筋では衰微し、問屋、馬持ちともに困窮化のもとであり、旧例の道筋か、葛城から関俣を通るかどちらかにして欲しいと、棚倉藩の廻米役所に訴えている。
 この訴えに対し、前高谷村は、奥平宇都宮藩のときの正保二年(一六四五)のころ、「関俣村なりとも前高谷村、土室村、台新田なりとも、その地の問屋が勝手次第にいずれの村へなりとも、荷物送り候様に仰せ付けられ候」と、馬継ぎ自由の書付をもらったと主張し、宇都宮藩代官所に反論している。宿問屋による「馬継ぎ自由」とは、街道が徐々に整備される中で、問屋制度未確立の段階のことと見れば、あり得る正当な主張であった。
 翌五年になり、宇都宮藩代官から取調べの結果が申し渡された。その内容は、①商人荷物の付け通しは先規のとおり認めないこと、②烏山城米は前々のとおり原問屋で継ぎ、その外の荷物も付け通しがあったときは抑えてよい、ことになった。
 争論はこの後も続くのであるが、原の問屋にとっての根本問題は、近年になり関候村通りが多くなるのに対し、原村の荷物が滅り、問屋、附子が困窮に陥ったことであった。