その後も関街道は、奥州道中と氏家から西側を通る会津藩廻米路の原街道の三本と並列していたが、荷街道としての関街道は、近世初期のように圧倒的な地位は失われていったようである。
文化十年(一八一三)、葛城村と上川井村問屋が関街道について証文を取り交わしている(史料編Ⅱ・五五一頁)。関俣村から河岸までの村々が参会のうえ、新道筋などの脇道には荷物を継ぎ送らないことを取り決めている。何をきっかけにこの取り決めをしたのか、この年に参会しなければならない事情は何か等は不明である。ともかく、従来の旧例を再確認する必要が生じたのであろう。
文化十四年にも、葛城村・関俣村・板戸河岸の問屋で議定証文がつくられた(史料編Ⅱ・五五一頁)。古来からの外道(脇道)利用禁止の定めのところ、最近は乱れていて氏家宿、阿久津へ抜け荷を送るものがでてきたので、議定を結んだのであった。
関街道は板戸河岸と結んでいたはずなのに、氏家宿、阿久津河岸への脇道が隆盛となったのである。すでに、関街道の独自性、有利性は失われてしまっていたのかもしれない。