江戸と奥州を結ぶ奥州街道は、古代の東山道のように、近世になり新たに作られた官道ではない。従来からあった街道を再整備して、必要に応じて維持管理体制を追加することによって出来あがっていったものである。
江戸幕府の成立による中央集権体制の誕生は、江戸と全国各地を結ぶ幹線交通網の整備を不可欠なものとした。そこで幕府は、みずから従来の街道の路面を整備し一里塚を築いて、恒常的な道路管理にのりだした。また、宿泊施設と伝馬負担を義務化した宿駅を制度化することにした。このようにして近世の街道と宿駅は誕生していったのである。
近世初頭の奥州街道の状況は悲惨なものであった。慶長五年(一六〇〇)、会津の上杉景勝追討のため下野小山に到着した徳川家康軍は、石田三成の挙兵の報に接し直ちに西上することになった。関が原の戦いの始まりである。このときの様子を『慶長年中板坂卜斎覚書』は次のように記している。「先手衆の人数残らず引き取る、打ち続く雨に道あしくなり、馬の前足の節までとどく泥土の中を一足ずつ渡り候、目も当てられぬ体なり」と、このころの奥州街道の実態を伝えている。しかし、そののち街道の整備は急速に進んだ。慶長十八年に駿府(静岡市)の家康を訪れたイギリス東インド会社の司令官セーリスは、そのときの紀行文『日本渡航記』に、「道路は大部分は素敵に平坦にして、国中の幹線道路はおおむね砂及び砂利よりなる」と、すでに東海道をはじめとする幹線道路の整備が進み、徹底していたことを称賛している(体系日本史叢書『交通史』から)。
街道の整備にくらべて、宿駅制度の面は大分遅れていた。
奥州街道とは、江戸日本橋から奥州白河までの道筋と各宿を指すものであった。このうち江戸から宇都宮までは日光街道と兼ねていたともいわれるが、それぞれの街道がどこからどこまでかは明確ではなかった。宝暦八年(一七五八)になって、江戸の伝馬役を勤める馬込勘解由は、日光街道は江戸の千住宿から日光の鉢石宿まで、奥州街道は白沢宿から白河宿までと報告して、その後次第にこの区分けで呼ぶことが多くなったという。
また、街道の呼び名についても、最初は東海道にならい、奥州海道、日光海道などと呼びならわしていたが、海のない国を通る「海道」は不合理との意見もあり、その後次第に「奥州道中」「日光道中」という呼び名となったという。
このようなエピソードは、奥州道中もその宿駅も、必要に応じて徐々に出来上がったことの現れであろう。