街道の整備とともに、通行に必要な伝馬負担者の確定は、街道成立の大きな画期となるものであった。宿駅は「地子免(地子免許)」として宿町場の屋敷地の租税負担を免除された代償に、必要な伝馬役負担の義務を負うことを原則とした。地子免の設定は、通行に必要な馬と人足を宿駅が常備し、公用通行には無料で人馬を継ぎ立てる伝馬役を負担する制度の誕生を意味した。近世宿駅制度の起源を示すものであった。
慶長七年(一六〇二)、宇都宮町中の地子が免除された代りに「公儀の伝馬無沙汰有るべからず」と命じられ(『県史史料編・近世一』)、奥州道中にも伝馬制がしかれた。しかし、奥州道中の白沢宿、氏家宿、喜連川宿には、いずれも後々まで地子免の設定がなかった。その代わり、田方掛物ほかの諸役負担が免除されていた。安永三年(一七七四)の「氏家宿指出帳」には、宿高二千八十八石余のうち千七十八石余が御伝馬継ぎ「往還半役御免高」として諸役免除と記されていた(『氏家町史』)。この免除の代償として、氏家宿では、二十五人、二十五疋の人馬を常備し、伝馬の継ぎ立てを行なったのである。
この諸役免除は、近世初頭から寛永十年代の参勤交代の制度化ころまでに、各宿で順次に始まっていた。氏家宿は、寛文八年(一六六八)松平忠弘が宇都宮藩主として入封したときに、御伝馬継ぎのために諸事半役御免の継続を求め、それ以前の起源を伝えている。石橋宿では、この免除は「五十年来」の特権であると主張していた(『県史通史編4・近世一』)。五十年来とは、この諸役免除の特権が元和五年(一六一九)ころから始まったことを意味している。奥州道中では、このころ諸役免除と伝馬負担の制度が始まったことを類推させる。