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定助郷制の成立

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 万治二年(一六五九)、幕府大目付の高木伊勢守が新たに街道関係を管掌する道中奉行を兼任することになった。道中奉行の誕生である。さらに元禄十一年(一六九八)からは勘定奉行の一人が加わり、以後道中奉行は大目付と勘定奉行の双方から一人ずつ兼任する二人職となった。道中奉行は、五街道をはじめとする幹線道路とその宿駅の伝馬、助郷、旅宿などの全てを扱った。奥州道中とその宿駅は、領主のいかんにかかわらず、道中奉行を通じて幕府の直接支配を受けることになった。
 参勤交代を始めとする交通量は年々増大して、次第に宿の伝馬負担を過大なものとし、人馬確保は深刻な問題となってきた。東海道や中山道では、すでに寛永年間から、幕府は「助馬」制として、宿常備の人馬が不足したときは、宿の要請に応じて指定された周辺の村々に人馬提供を義務づけることを行なっていた。しかし、他の街道ではまだこの制度はなく、人馬を出す村も定まってはいなかった。奥州道中の氏家宿では、必要に応じて村々と「相対」の交渉によって不足する人馬を動員していた。
 幕府は、増大する交通量に対応し、宿駅が安定して伝馬制を運営維持できるように、特定の村を「助郷村」に指定し、その負担額を「助郷高」として定めて、いつでも伝馬役負担を強制できる「定助郷制」を採用することにした。相対にもとづく恣意性と不確実性を一掃しようとしたのである。助郷村も、従来の国郡別または領主別の指定に代わって、宿駅最寄りの村々を、村高を考慮して指定するようにした。日光道中では、元禄九年(一六九六)、道中奉行から各宿に助郷村と助郷高を指定した助郷帳が交付され、定助郷制が確定した。
 しかし、宇都宮から北の奥州道中は明確な定助郷でなく、特に助郷帳の交付もなかった。いわば従来の人馬提供の慣例を踏襲したままの相対助郷であった。宿駅では、常備の二十五人、二十五疋の伝馬で不足したときは、周囲の村々に人馬の負担を求めたが、具体的な負担する村と負担量の決定は、宿と村々の相対の交渉に任されていた。そのため、氏家宿と助郷村の間で、また助郷村々の間でも負担をめぐる紛争が絶えなかった。
 この氏家宿に定助郷村が指定されたのは十八世紀半ば過ぎの宝暦年間のこと、また助郷帳が交付されたのは文政十一年(一八二八)になってからであった。