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氏家宿の助郷村と助郷争論

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 氏家宿に助郷帳が下付された翌文政十二年、氏家宿の助郷四十五村の間に、幕府道中奉行にまで及ぶ争論がもちあがった。争いの論点は次のようであった(史料編Ⅱ・五一八頁~)。
 氏家宿助郷村四十五か村といっても、その全部が定助郷村となった訳ではない、と主張する村が出現したのであった。前高谷村など二十か村の言うところによれば、四十五か村のうち、「氏家宿助郷村一覧」のNo.1からNo.25の関俣村等二十五か村(「氏家宿助郷村略図」では●印)のみが「定助郷」であり、残りの前高谷村など二十か村(No.26からNo.45、「略図」では■印)は臨時的な「加助郷」だというのである。そして、四十五か村を定助郷村としたのは、氏家宿と二十五か村側が馴れ合いにより欺いたもので、不法であると訴えた。さらに、人馬負担についても「定助郷」と「加助郷」の村では差をつけるべきである、と訴えるのであった。
 この吟味取調べの結果は次の通りであった。氏家宿に交付された助郷帳等の書留類には「定助郷」「加助郷」の区別はなく、単に「助郷四十五か村」とのみ記されていた。それを「定助郷四十五か村」としたのは間違いであるが、氏家宿が「定助郷」側二十五か村と馴れ合いにより不正を図った事実はない、との結論であった。大通行のときだけに臨時に命ぜられる加助郷ではないが、定助郷とも言ってないのである。「加助郷」側二十か村の主張は否定された。しかし、人馬役の負担については、「定助郷」二十五か村はこれまで通りであるのに対し、「加助郷」村々には、一か年に高百石について人足三十人から三十八人、馬三十疋と定収、助郷人馬提供に上限を設けることで示談が成立した。
 この「定助郷」「加助郷」の争いとは一体何だったのだろうか。
 実は、「定助郷」二十五か村は、すべて比較的氏家宿の近在にある宇都宮藩領だったのに対し、「加助郷」二十か村は、その内No.26からNo.30の五か村のみは、宇都宮藩領ではあるが鬼怒川の上流部で氏家宿から最遠距離にあり、また、No.31からNo.45の十五か村は当時幕府天領及び一橋領となっている元宇都宮藩領であった。結局、元々宇都宮藩の領内助郷であった氏家宿助郷四十五か村が、宇都宮領分割から佐倉藩領、一橋領の分立などの変遷を経るうちに、次第に独自の歩みをするようになって利害の対立が生まれ、領主という調整役が不在のまま、助郷役忌避の訴訟にまでエスカレートしていったものではなかろうか。しかし、助郷帳の下付と訴訟によって、領主の違いによる助郷役の忌避はすべて否定され、助郷が幕府の公儀役であることが確立していくのであった。

10図 御用書写帳 天保5年(1834)(花岡 岡本 右家文書)


11図 関俣村の御用書写の覚(花岡 岡本 右家文書)