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助郷制の崩壊

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12図 天保7年氏家宿助馬勤めにつき起請文ひな形(亀梨 鈴木重良家文書)

 助郷制は、宿駅の伝馬役の不足を補うため、周辺の村々が助郷役として人馬を提供し、街道の通行と荷物の継ぎ立てを維持していくものであった。助郷制が変質、崩壊し、毎日の人馬の提供がスムーズに行なわれなくなると、街道の交通体系そのものを危機に陥らせることになる。
 助郷村からの人馬提供は早い時期から問題に直面していた。享和三年(一八〇三)、氏家宿と助郷三十か村の「宿と助郷の取締り請書」(史料編Ⅱ・五一一頁)もその一つである。宿駅も助郷の協力なくしては人馬の継ぎ立ては困難であり、その対処策として宿駅と助郷村双方が調印した。そこでは、継ぎ立ては先ず宿人馬を先にその余りを助郷村に割りつける人馬の使い方から、不正を招かないために「着到帳」作成、日々記帳し役所に提出すること、また、助郷村が違反したときの罰則等も定めた十八か条にわたる協定を結び、五か年間の厳守による助郷の励行を誓約したものであった。
 このような請書にもかかわらず、翌文化元年(一八〇四)には、氏家宿の助郷のうち一橋領十二か村、助郷高三千百三十五石余は、三十三両余を払って人馬の肩代わり、人馬建てを依頼することになった。助郷高百石について約一両を支払い、実際の助郷の出役を免れることにした。十二か村総代から宿助郷取締宛の一札には「この村々遠村、殊に困窮で人少ないにつき、今般氏家宿と隣村の無役の者に相頼む」とあった。雇われた無役の者とは、氏家宿、桜野村、馬場村の水呑の十人である。この十人に購入した馬十疋を預けて、一か月に十五度ずつの伝馬役を勤めさせ、十二か村の助郷役を請け負わせたのである(史料編Ⅱ・五〇九頁)。助郷役請負いは、氏家宿助郷では恒常的なものであった。天保六年(一八三五)にも、氏家宿の助郷八か村は、助郷勤高の八分を立人馬として氏家宿問屋雇いを依頼し、残りの二分は正人馬勤めとして村々から人馬を出すことにした。このとき、一か年分の人足五百七十人、馬五百七十疋の雇い賃は約四十両であった(史料編Ⅱ・五三〇頁)。
 天保十四年、十二代将軍徳川家慶が日光社参を行なったときに、多数の臨時の人馬が動員されるなかで、助郷人馬役が金銭納入で代替えできることを幕府も初めて公認して、正人馬勤めと人馬雇い銭納入が二重にならないようにと注意をしている(史料編Ⅱ・五三九頁)。助郷役の代金納による変質と宿駅雇い人馬の一般化は、もはや抑えきれない程に広まっていることの現れであろう。
 幕末になると通行量は爆発的な増大を示し、宿駅と助郷村はさらに困惑の度を深めていった。特に文久二年(一八六二)の幕政改革により、参勤交代制の緩和とともに江戸の大名妻子に帰国が許されたために、奥州道中においても交通量が激増した。前高谷村ほかの氏家宿助郷村でも、従来の負担金に加えて「稀なる御通行、手伝い金として三十五両差し出し」とか「手伝い金七十五両差し出し」など、宿駅の混迷と助郷村の負担増のうちに明治を迎えようとしていた(史料編Ⅱ・五三二頁)。