徳川家康及び家光が葬られている日光は、幕府の聖地として徳川家と諸大名の崇敬の場所であった。毎年四月の家康の命日には、将軍の代参として大名が日光に派遣されるし、また朝廷からの例幣使の通行もあった。日光道中の助郷は、これらの通行に備えるためでもあった。
さらに、没後百年、百五十年等の節目にあたる年には、特別大規模な日光法会が行なわれ、多数の大名が動員され参加した。なかでも、将軍自身が日光に参詣する日光社參のときには動員された諸大名は多数にのぼり、その通行量は莫大であった。人馬動員数もとても通常の宿助郷の人馬では賄いきれなかった。それに応じて遠方の村々にまで、大規模な臨時の助郷役が課せられることになった。これを加助郷と呼んでいる。
高根沢の村々は、日光道中徳次郎宿の加助郷を勤めることになっていた。