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徳次郎宿加助郷

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2表 寛延3年徳次郎宿加助郷人馬割付
村名人足
西高谷村4人1疋
前高谷村10人6疋
寺渡戸村3人2疋
平 田 村14人6疋
太田村9人4疋
栗ケ嶋村11人6疋
桑久保村10人6疋
中柏崎村4人1疋
下柏崎村2人1疋
八ケ代村7人4疋
烏麦村3人1疋
曲田村6人3疋
曲畑村19人9疋
落合村8人4疋
黒田村4人3疋
114人57疋

 
 寛延三年(一七五〇)四月は徳川家光の百回忌にあたり、大規模な日光法会か行なわれることになった。寛延三年、道中奉行から「今度、日光山にて御法会について、宿人馬、定助郷人馬ばかりでは不足につき、徳次郎宿へ当分増助郷申しつけ候」と「当分増助郷」の形の加助郷が命じられた(史料編Ⅱ・五三七頁)。早速、徳次郎宿問屋から、各村の名主、組頭に対して徳次郎に参集し、この加助郷証文を拝見のうえ請書に押印をするようにとの急な廻状が廻ってきた(史料編Ⅱ・五三五頁)。
 このとき徳次郎宿の加助郷となったのは、高根沢周辺では十五か村で、割付人馬の数は合わせて人足百十四人、馬五十七疋であった。この人馬は、三月二十八日の夕刻までに宰領を添え徳次郎宿に出向き、法会が終わるまでは「常詰」の予定であった。ただし、余りにも急な廻状であったために、期限内では全部の村に回りきれず、徳次郎宿集合の日も延期される程であった。
 次いで明和二年(一七六五)四月の徳川家康百五十回忌の日光法会には、さらに大規模な加助郷が命じられた。高根沢周辺村々はふたたび徳次郎宿の加助郷となっている。
 なお、同じころ、明和元年末から二年正月にかけて、武蔵国の中山道沿いの村々では、度重なる国役金の負担増加等に反対する大百姓一揆が起こった。一揆の大きな目的に、増助郷反対があり、助郷請負人の打ちこわしにも及んだので、この一揆は伝馬騒動とか天狗騒動とか呼ばれている。一揆は、武蔵から上野、信濃国にも波及し、参加人数二十万人ともいわれる近世でも最大規模の百姓一揆となった。