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他の宿駅の継立て‐台新田宿‐

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13図 台新田宿内のたつ街道

 奥州道中や日光道中の助郷負担以外にも、村々は幕府や諸藩の公用通行にかりだされていた。延享四年(一七四七)の亀梨村五人組帳前書きに、「海道筋は申すに及ばず、在々にても公儀よりの御用人馬は勿論、昼夜に限らず滞りなく差し出し、旅人の難儀なきように仕るべし」(史料編Ⅱ・三二五頁)とあるように、奥州道中以外の脇街道でも必要に応じて人馬が徴発され、継ぎ立てが行なわれていた。なかでも、亀梨村と上柏崎村からなる台新田宿は、近世初頭以来の古い宿駅であった。
 文化五年(一八〇八)の柏崎村、台新田村のお届けによると、前年の一年間に、台新田から鴻野山村及び稲毛田村に、水戸藩や各藩の家来、益子の大沢円通寺住職、幕府代官の手代等のために継ぎ立てた人馬は、合計で人足百十七人、馬百五十二疋となっていた。なかでも、代官岸本武太央の手代衆の通行には馬二十五疋、人足五十一人を要していた(史料編Ⅱ・五四四頁)。
 嘉永元年(一八四七)の台新田村百姓連印は、同宿問屋との示談の一札である(史料編Ⅱ・五二六頁)。村は余荷金として三両の助成金を受け取った上は、家数が減少するなかではあるが、継ぎ立てが滞ることがないように、問屋から触れが有り次第に人馬を差し出すと確約したのである。