ビューア該当ページ

下野の水運

730 ~ 732 / 899ページ

14図 幕末の阿久津河岸模型(ミュージアム氏家提供)

 江戸時代、河川は重要な交通路であった。もっとも重要な運輸の手段であった。船を使った荷物の輸送は、陸上交通の人力や馬を使った輸送の数十倍の効率を上げることができた。一般に馬は、背に米俵を二俵を積んで一駄とするが、鬼怒川などでよく使われた高瀬船は、一艘で米二十石位を積むことができた。二十石とは五十俵のことである。
 江戸時代にはいると、河川は、特に年貢米の輸送路として重要となり、河川と河岸の整備は、街道と宿駅の整備と一体となって積極的に進められた。河川は街道と連結した運輸交通路となっていった。下野の諸河川は、東北諸藩の年貢米の江戸への搬送路であり、材木、炭・薪、たばこなどの御用荷物、商人荷物の大動脈であった。
 元禄三年(一六九〇)、幕府は「河岸改め」として、江戸に向けての年貢米など領主荷物の積み出し港、河岸の調査を行い、道法と運賃を定めた。各河岸から江戸までの距離を調べ、米百石の公定運賃を定めたものである。高根沢周辺では、このとき鬼怒川の(上)阿久津河岸、板戸河岸、道場宿河岸の三河岸が書き上げられていた。このなかでも上阿久津河岸と板戸河岸は、鬼怒川上流部の最古の河岸として慶長年間の起源を伝え、ともに領主的流通機構の一環として開発、整備が行なわれたのであった。
 河川が領主的流通機構の一環として重視されると、河岸の設置、河岸問屋株、船改めなどについての幕府の統制は厳しくなった。しかし、河岸を維持し継続するためには、いかに新しく勃興してきた商人荷物を取り入れるかが問題であり。幕府の統制の比較的弱い新しく開かれた中小河川の新河岸との競争に巻き込まれていくのであった。これは、陸上における脇街道との競合、荷物争いの場合とまったく同じである。

15図 高根沢周辺の河岸

3表 元禄3年河岸改め
河岸名江戸までの距離百石につき運賃米
   里   石斗
阿久津河岸586.0
板戸河岸575.9
道場宿河岸565.8

(『栃木県史』通史編4近世一・600頁)