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江戸廻米

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 近世の早くから、板戸河岸は領主米の積み出し河岸であった。元禄二年(一六八九)、幕府代官山川三左衛門の支配する那須の天領村々御城米の江戸廻米について、板戸河岸問屋平右衛門と五兵衛は船賃お定めの請書を提出した(史料編Ⅱ・五六八頁)。板戸河岸から結城近くの小川河岸まで距離十一里半余りについて、七十八駄について船賃は金一両と定められた。
 天保五年(一八三四)、一橋領の河岸取決め議定には、この年の一橋領上高根沢村・桑窪村など六力村の廻米河岸出し量が取り決められている(史料編Ⅱ・五六九頁)。板戸下河岸からの廻米量は合計で米三千五百十三俵余、籾六十六俵という量に達している。
 船を利用した輸送は、陸上の宿継ぎによる輸送と比べて、積み替えのロスや途中の揺れも少なく、荷物の傷みは少なかったか、ときには「減石」「濡れ米」などの損傷があり紛争の元となった。荷主と河岸問屋は、議定を結んで紛争を防止するのであった。天保六年(一八三五)、栗か嶋村等の三カ村の願書によると、久保田河岸へ輸送した前年の廻米について減石があり争いとなったが、三カ村は減石分の米二十三石余の代金を受け取って解決したのであった(史料編Ⅱ・五七二頁)。嘉永四年(一八五一)、阿久津河岸問屋は、塩谷郡の天領十二か村総代の寺渡戸村名主と関俣村名主に請書を提出した(史料編Ⅱ・五七二頁)。今年の十二か村分の年貢米の阿久津河岸から結城近郊の久保田河岸までの廻米を依頼され、船賃は上乗り才料賃共、一駄につき銭百六十四文と定めた。さらに、阿久津河岸を出るときの三斗九升の俵が久保田河岸に着いて三斗八升八合以下に減石していたときは、弁償米を出すという内容であった。
 このように領主廻米に大きな比重を置いていた板戸河岸は、近世後期になると次第に衰退にみまわれることになる。寛政五年(一七九三)の板戸河岸、道場宿河岸の願書は、その間の事情を次のように伝えている(『栃木県史』通史編5・三五四頁)。
 
   この河岸は、会津藩などの領主廻米積み出しを中心的な業務としてきたが、天明三年(一七八三)の飢饉以来、船数が減少して廻米の船の確保がむずかしくなった。そこで他の荷物を差し止め廻米を優先させたため、ほかの荷物は五十~六十日も留められてしまい、一般の荷物は六里も向こうの那珂川まわりで江戸に向かうようになってしまった。そのため当河岸に荷物が送られず、船稼業が成り立たない程さびれて、船も打ち捨てられるようになった。
 
と、那珂川の新たな河岸の進出で荷物はそちらに流れ、板戸河岸等が衰退していったことを伝えている。
 これら鬼怒川の領主的な河岸も、生き延びるために多様な商品荷物の輸送を手掛け、再生の道を求めることになった。