近世後半期、高根沢東部の山林地域では薪炭の生産が盛んに行なわれ、領主への雑税(小物成)としても大きな比重を占めるようにもなっていった。生産の中心は、亀梨村や中柏崎村の付近一帯で、江戸の巨大な薪炭需要に応えて下野が大きな生産地となっていった。
宝暦三年(一七五三)、旗本領中柏崎村の年貢勘定目録は、この年はじめて炭二百七十一俵の納入を記している。勘定目録にはその代金十四両余りとある。以後、中柏崎村では年貢小物成として炭の納入は恒常的なものとなっている。
これらの炭は、河岸を通じて江戸へと運ばれた。明和九年(一七七二)、炭二百六十五俵を津出しした中柏崎村の名主代理は、舟賃として永二貫五百十八文余を受け取っている(史料編Ⅱ・五八九頁)。平田村でも板戸下河岸から炭を津出しした(史料編Ⅱ・五九〇頁)。
嘉永二年(一八四九)、寺渡戸村の藤右衛門の「炭荷物積み付け帳」には、喜四郎船、幸吉船、惣倉船、忠倉船、庄兵衛船の五人の船により積み出されている(史料編Ⅱ・五九一頁)。