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村持ちの船

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 中柏崎村の名主は、領主である旗本伊沢家所持の「高瀬船 二艘」を預かることになった(史料編Ⅱ・五八六頁)。その間の事情は判らないが、明和六年(一七六九)舟預り人の名主清次右衛門は預かり証文を川船御役所充てに提出している。なお、この船は、御屋敷運送の御用以外に利用することは禁ぜられ、また、船は結城の久保田河岸問屋のもとに頼み係留しておくので、直接の船の管理にはならないようであった。
 このように、河岸でもない農村で舟を所持することもあった。寛政元年(一七八九)、宇都宮領宝積寺村で船二艘を所持することになり、川船方役所と折衝のため代官所に届けを出している(史料編Ⅱ・五八六頁)。この船は運輸業のためではない。実は、鬼怒川を隔てた対岸に宝積寺村の新畑、荒地十三町歩余の秣場が広がっていて、そのために船が必要だったのである。鬼怒川は荒れ川のため流路はたえず変わり、このように流路に村が分断されることもおこったのであろう。ただし、これを渡し船に用いると種々むずかしいもとにもなり、特に板戸・上阿久津両河岸からはすでに相止めるようにとの申し入れもあり、問題はなかなか複雑であった。