(1)収入
| (2)支出
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出典:上高根沢宇津史料館、弘化2年「酒造店卸取調帳」(史料編Ⅱ・477頁)
7表 柏崎村源五右衛門家の藍玉の仕入高
年代 | 藍玉数 | 仕入金額 |
嘉永5年(1852) | 16本( 640玉) | 39両 |
嘉永6年(1853) | 27本(1080玉) | 27両1分2朱 |
安政1年(1854) | 15本( 600玉) | 37両2分 |
安政2年(1855) | 2本( 80玉) | 5両 |
安政3年(1856) | 4本( 160玉) | 9両3分 |
万延1年(1860) | 18本( 720玉) | 31両3分余 |
文久1年(1861) | 5本( 200玉) | 6両1分2朱 |
文久2年(1862) | 14本( 560玉) | 24両1分余 |
出典:中柏崎 小林和夫家、嘉永5年正月「現金藍玉通」ほか(史料編Ⅱ・468頁)
近世も中期以降になると、上層農家においては、年貢の負担、奉公人への給金支払い、肥料代金の多大な支出、日常生活費の増大などにより、農業の生産物から上がる現金収入だけでは間に合わなくなり、様々な営業に手をのばすようになった。肥料商や醸造業、農作物などの仲買商、あるいは金融業などが代表的なものである。
亀梨村台新田の七郎左衛門は、長年酒造業を営んでいたが、元文二年(一七三七)八月に酒造道具一式を、喜連川本町の五左衛門に貸与している(史料編Ⅱ・四八七頁)。これは酒造の減石令が幕府から出される十七年も以前のことである。七郎左衛門の酒造業が不振になった原因は不明であるが、現金収入を得るために新たに商売を始めても、中途で挫折したり、このように不振に陥り、店仕舞いをしなければならないこともあったのである。
上高根沢村の辰巳屋祐次郎も酒造業を営んでいたが、弘化二年(一八四五)五月の「酒造店卸取調帳」(史料編Ⅱ・四七七頁)より同店の金銭収入及び支出の様子をまとめたものが、6表である。なお、辰巳屋は、宇津権右衛門の酒造部門で、当主の息子か弟が営み、会計も別であったらしい。酒造高は百五十六石であり、酒販売とその他のもので年間千百一両二分二朱と三百十七貫九百八文の収入があった。支出総額は千七十五両二分三朱と五百二十七貫六百三十三文であったから、差引金二十五両三分二朱の黒字と、差引銭二百九貫七百二十五文の赤字となり、金一両=銭七貫で換算すると約金四両余の損失となる。収支の内訳を詳細に見ていくと、糀・餅米・玄米・大豆などの売上や買入があるので、辰巳屋祐次郎は農産物の取引を行っていたといえる。また、時貸や正金貨があるので、金融業も営んでいたことがわかる。このように同人の場合は、酒造業以外に米穀商と金融業を兼業していた。
上高根沢村の(阿久津)半之助も、酒造高五百石の醸造業を営んでいたが、その収支のほどは史料不足のため不明である。
柏崎村の源五右衛門は、藍玉を扱っていたが、その取扱量は、7表の通りである。同表によると、年によって取扱量に大きな差が生じていることがわかる。仕切紙のすべてが残っていたのでないが、平均して年間八百玉から千玉の藍玉を取り扱っていたといえる。
上高根沢村上金井の阿久津家は、綿製品の仲買商を営みながら、当時の商品作物であった菜種を取扱い、そのかたわら米・麦の仲買にまで商売を広げていた。元治二年(一八六五)二月の「綿買入帳」(史料編Ⅱ・四九七頁)によると、同年の綿買入総額は十八両と百七十一貫七百八十一文であったが、翌年には菜種や米・麦の買入を行い、総額で六十七両二分と二十四貫四百二十一文となった。金一両=銭七貫で換算すると、元治二年は約四十二両二分、翌年慶応二年は約七十一両の買入総額となり、約一・六七倍の伸びを見ることができる。この頃の菜種の需要は大きく、裏作として栽培面積・収量ともに増大していた。その菜種を取り扱うことによって、商売を伸ばしたのである。
肥料商を営んでいた亀梨村の七郎左衛門は、主に〆粕と干鰯を取り扱っていた。寛政九年(一七九七)から文化五年(一八〇八)にかけて同人が扱った〆粕及び干鰯の量と売上高は、前掲第二章第四節第二項の29表(六二九頁)の通りである。ここに示されている売上量は売掛量であり、現金で販売した量は記入されていない。また、その販売範囲は、広範囲にわたっていた。
以上、高根沢町域における農間余業・諸渡世について概観してきたが、いずれも農家における現金収入の不足を補うものである。農産物だけでは思うように現金収入を得ることができないので、一部の上層農民がこれらの諸営業を兼業していたのである。彼らの中には、亀梨村の七郎左衛門のように、はじめは酒造業を営んでいたが、中途でそれを他に譲り、木炭の製造に転じ、その販売を広げながら〆粕や干鰯の販売にも営業を伸ばしていくという、複数の業種を兼業するものも存在した。