3図 酒造りの絵馬(大谷 高龗神社蔵)
江戸時代にはいると、酒の醸造技術は、灰汁投入法から寒造り製法へと進歩がみられるようになり、今日の清酒が醸造されるようになった。地方で醸造された清酒は、陸路馬の背で運搬していたが、後に樽廻船で問屋へ送られるようになる。当時の酒造業は、すでにマニュファクチュアの段階に至っていた。酒造労働者も地方により相違はあるが、杜氏・頭・衛門・酛廻・上人・追回・飯焚などに分かれており、分業化されていた。各人は、各々担当工程を異にし、分業に基づく協業制を採っていた。しかし、酒造労働は、現在と同じような季節労働であったから、農漁民が冬期の閑暇を利用してこれに当たっていた。
江戸幕府は、奢侈禁止と米価調節の点から酒造統制を行った。明暦三年(一六五七)に酒株を制定し、この株の所有者でなければ酒造業を営むことを許さなかった。しかも造石高を制限し、醸造量は造石高の範囲内に限ることとしたのである。だが、酒株の売買は認められていた。
亀梨村台新田の七郎左衛門は酒造業を営んでいたが、何らかの理由で元文二年(一七三七)八月に、喜連川本町の五左衛門に酒造道具一式を貸し与えている(史料編Ⅱ・四八七頁)。道具一式とは、酒舟一双・五尺桶四本・四尺桶十三本・三尺桶八本・煮台六本・半切二十枚・二尺八寸釜一つと二尺五寸釜一つ・こしき一つ・そらちし釜一つ・千石ふるい一つである。これら道具の貸与期間は七年間で、その賃貸料は、元文二年八月から同三年八月まで金二両、同年八月から延享元年(一七四四)八月までが金二両二分と決められた。