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酒造の減石令

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4図 辰巳屋(宇津家)の大徳利(宇津資料館蔵)

 江戸幕府は、その年の豊凶やその他の事情をかんがみて、酒造米石高の制限措置を採っていた。宝暦四年(一七五四)十一月の「三奉行え」(『栃木県史』史料編近世五・五二七頁)によると、酒造米について、諸国とも元禄十年(一六九七)の石数は、定数の三分の一に限り、この外新酒など一切を禁止する旨、正徳五年(一七一五)十月に触れ書を出したが、その後酒造米についての触れ書を出していない。現在も以前の定数であるから、今後諸国とも元禄十年の定数までは、新酒・寒造りなど自由勝手でよい(以下略)。とあるが、それから三十二年を経た天明六年(一七八六)九月には、「御勘定奉行え」(同前書・五二七頁)として、次のように酒醸造を制限している。
 
  諸国の酒造業について、元禄十年の定数までは、新酒・寒造りなど自由勝手でよい。休酒屋も酒造を望むときは、現住地の奉行、御料は代官、私領は地頭へ届出て自由勝手に作ってよいと、宝暦四年に触れ書を出したが、近年米穀安価の年がなく、今年も米高値となり、末々の者が難儀していると聞く。それ故、米価が安値になり、追って通知するまでは、諸国ともこれまでの酒造米高の内、半分だけ酒造を認めることにする。また休酒屋は酒造高はあっても造ってはならない。
 
 このような酒造減石令は、年を追って次々に出され、酒の需要はあっても供給できないこととなるのである。主な減石令をあげてみると、次のようである(同前書・五二八~五四五頁)。
 
  ・天明七年(一七八七)六月  酒造米高の内三分の一造り令
  ・寛政三年(一七九一)九月  酒造米高の内三分の一造り令及び濁酒造り禁止令
  ・寛政六年(一七九四)九月  酒造米高の内三分の二造り令
  ・寛政七年(一七九五)十月  天明六年以前の酒造米高まで勝手造り令と休株酒造禁止令
  ・享和二年(一八〇二)七月  天明八年改め高の半石造り令
  ・文化三年(一八〇六)九月  勝手造り令
  ・天保元年(一八三〇)十一月 従来酒造高の三分の二造り令
  ・天保五年(一八三四)五月  天保三年までの酒造高改めならびに三分の一造り令
  ・天保五年(一八三四)十一月 天保三年までの酒造高の三分の二造り令
  ・天保七年(一八三六)七月  天保三年までの酒造高の三分の一造り令
  ・安政六年(一八五九)十二月 関八州酒造鑑札高の半石造り令、諸国三分の二造り令
  ・慶応二年(一八六六)    関八州鑑札高四分の一造り令、諸国三分の一造り令
  ・慶応三年(一八六七)九月  諸国酒造高三分の一造り令
 
 天明六年(一七八六)は、関東及び陸奥地方の大洪水で大凶作となり、翌七年に酒造定数三分の一令が発せられる。四年後の寛政三年は、引続き酒造定数三分の一令と、濁り酒造り禁止令、同六年に酒造定数三分の二造り令、翌七年には酒造勝手造り令が出されて、定石数の酒造が再びできるようになった。
 ところが、七年後の享和二年は諸国の大洪水で凶作となり、酒造定数半石造り令が出される。四年を経た文化三年には、もう一度酒造勝手造り令が出され、天保元年から同七年までは、三分の二か三分の一造り令が出されている。安政六年に関八州は半石造り令、諸国は三分の二造り令、慶応二年に関八州は四分の一造り令、諸国は三分の一造り令、翌慶応三年には再び三分の一造り令に戻されている。このように幕府は、その年の米作の豊凶によって醸造高を常に変動させていたのである。
 高根沢町域では、弘化二年(一八四五)に、上高根沢村の辰巳屋祐次郎が、酒百五十六石を醸造し、これは代金二百八十三両二分余に相当している(史料編Ⅱ・四七七頁)。同年の酒造定数は三分の二造りであるから(天保十二年以降三分の二造り令)、鑑札通りならば二百三十四石の酒造高のはずである。