平地林や平山の多い高根沢町域において、農間余業として、あるいは専業として木炭が生産されていた。文化十四年(一八一七)の「炭木山売渡証文」(史料編Ⅱ・四五九頁)によれば、富裕な農民は、一度に数か所の炭木山を購入し、雇い入れた大勢の焼夫(焼子)を木炭の生産に当たらせている。
同町域における炭木山の購入を証文からみてみよう(4表参照)。柏崎村の清次右衛門は、文化十四年二月に、大谷津村の喜惣次から二両二分二朱で雑木山二か所を(史料編Ⅱ・四五九頁)、三年後の文政三年(一八二〇)二月には、一両一分で同村の市郎兵衛外三名の共有山一か所を(中柏崎 小林和夫家文書)、翌年十月には市塙村(現市貝町)の長右衛門から三両二分で炭木山四か所を購入している。
また、亀梨村の七郎右衛門は、弘化二年(一八四五)九月に土室村の元吉から二両で炭木山一か所を購入し(亀梨 鈴木重良家文書)、元治元年(一八六四)正月には飯室(土室)村の政五郎から十一両で雑木山三か所を(史料編Ⅱ・四六〇頁)、同年九月には小白井村(現南那須町)の久兵衛から三両で雑木山一か所を(亀梨 鈴木重良家文書)、同年十二月には亀梨村の重郎右衛門から四両で雑木山一か所を購入している(史料編Ⅱ・四六〇頁)。
これらの購入炭木山での製炭期間は、購入月からいずれも三十六か月と取り決められていた。したがって、製炭業者が期間内に製炭作業を終わらせるためには。かなりの焼夫を雇用する必要があった。製炭業者は。一か所の炭木山に数か所あるいは十数か所の炭竃を持ち、それぞれの焼夫に炭竃を与え、責任を持たせて木炭の生産に従事させたのである。
焼夫は、立木の伐採から炭薪を作り、竃入れ・竃焚き・炭出し、そして製品にするまでの一切を受け持ち、その労賃で生計を立てていた。焼夫の労賃は、嘉永三年(一八五〇)では九十五俵出して一両の割合である。同年、焼夫の初五郎は六百二十七俵出して六両二分と六百十九文の収入を得ている。別の焼夫は二百十七俵出して二両三分と五百二十四文の収入である。この収入から、製炭に必要な縄・俵及び食料品代や嗜好品代のすべてが差し引かれる。したがって手取り金はわずかになってしまうのが現実であった。彼ら焼夫は、一か所の炭木山が終了すると、次の炭木山へと移動する生活をしていたのである。
このようにして生産された木炭を、領主はその地域の特産品として売り出すことを奨励し、年貢上納の代替にもした。つまり。年貢米の替りとして木炭を上納させ、これを一括して領外に販売し、収入の一部に充当したのである。
宝暦四年(一七五四)正月の柏崎村の「御年貢御勘定目録」(史料編Ⅱ・四五七頁)によると、同村の宝暦三年の年貢十一両二分と一貫余りの内、五両を納入した残りは、宝暦元・二年の年賦上納分と合わせて炭で上納している。上納した炭の量は、両に十九俵替で、宝暦三年正月・四月に百四十一俵、同年九・十・十一月に百三十俵、合計二百七十一俵に達している。