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木炭の生産高

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8表 天保13~嘉永4年(1842~1851)の木炭生産高
(1)平田村太郎右衛門家の生産高
単位:俵
年代生産高販売高備考
天保13年(1842)1327約40両1両で33俵替
弘化2年(1845)1199約361両で33俵替
出典:平田加藤辰夫家、天保13年3月「炭代差引調帳」他より作成

(2)寺渡戸村藤右衛門家の生産高
単位:俵
年代生産高販売高備考
嘉永2年(1849)1529約45両1両で33俵替
嘉永3年(1850)1546約451両で33俵替
嘉永4年(1851)2884約841両で33俵替

出典:寺渡戸山本三好家、嘉永2年4月「炭御荷物指出帳」
 
9表 嘉永2年寺渡戸村山本藤右衛門所持釜と木炭生産高
                     単位:俵
炭釜名1釜の生産俵数釜ごとの俵数俵炭合計
狭間田東釜1223971,112
66
68
133
8
狭間田中釜100581
224
137
120
狭間田西釜134134
寺渡戸釜184895895
84
89
98
187
75
87
91
関俣釜119226297
78
29
4971
22
桑窪釜228228228
合計2,5322,5322,532

出典:寺渡戸 山本三好家、嘉永2年4月「去申炭津出し調仮帳」(史料編Ⅱ・461頁)
 
10表 月別木炭生産量(柏崎村)
                     単位:俵
年代生産量
文久2年6月98
文久2年7月84
文久2年8月32
文久2年9月95
文久2年10月252
文久2年11月87
文久2年12月192
文久3年1月83
文久3年2月100

出典 中柏崎 小林和夫家 「炭山俵数控帳」
 
 都市での生活様式が向上するにつれて、木炭の需要は増加していった。それに伴い、木炭の生産も増加せざるを得ない。生産に拍車がかかり、製品が過剰になると、需要と供給の均衡が崩れ、炭値は不安定になる。柏崎村「御年貢御勘定目録」(史料編Ⅱ・四五七頁)によると、宝暦四年(一七五四)に一両で木炭十九俵替であったものが、同十四年には二十二俵替と下落している(史料編Ⅱ・四五八頁)。
 また。弘化三年(一八四六)四月に、寺渡戸村名主は、「市中の炭相場も追々引き上がり、炭木山の値段も高値となったが、前と同じ炭値では納炭も難しいので、木炭の納め方を止めたいのでよろしくお願いいたしたく」という内容の嘆願書(史料編Ⅱ・四六五頁)を新橋炭薪会所あてに出すに至っている。
 8表は、平田村の太郎右衛門及び寺渡戸村の山本藤右衛門の木炭生産高である。藤右衛門の生産が増加していることは明瞭である。嘉永二年(一八四九)に同人が所持していた炭竃の数は、狭間田村東釜に九つ、同所西釜に一つ、寺渡戸村に八つ、関俣村に五つ、桑久保村に一つの計二十四竃である(史料編Ⅱ・四六一頁)。同人が雇っていた焼夫は、少なくとも十人以上であったろう。
 これらの炭竃から生産される木炭の俵数をまとめると、9表の通りになる。炭竃によって生産量が大きく異なっているのは、焼夫の労働時間の差であろうが、炭竃の規模の違いや炭木山の傾斜の違い(傾斜が急であると能率が上がらない)、あるいは足場の善し悪しによっても左右されているのであろう。
 10表は、文久二年(一八六二)六月から同三年二月の柏崎村における木炭生産高である。これをみると、季節によって生産高に差があることか分かる。六月から九月は暑さのために生産量が上がらなかったのであろう。また、正月の生産量低下は、祝事のためであろうか。いずれにしても炭木の採取は重労働なので、季節による体調の善し悪しが影響したと考えられる。

6図 炭俵(上柏崎 古口利男提供)