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高根沢の綿栽培

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 長い間庶民の衣料には麻が用いられてきたが、十五世紀ごろ大陸や南蛮から綿種が輸入され、各地で試作されるようになり、その中から江戸初期には特産地が生まれた。江戸中期には、関東地域でも綿の栽培は普及していた。木綿が庶民の衣料として広まるにつれ、綿の栽培面積も増大していった。綿は文化年間(一八〇四~一七)ごろになると、もっとも広範な市場を持つようになり、商品作物として栽培されるようになったのである。
 高根沢町域での綿栽培は、十八世紀後半のことと考えられる。寛政十三年(一八〇一)正月の「栗ケ嶋綿打中間人数改帳」(上高根沢 阿久津恵一家文書)によると、寛政・享和年間(一七八九~一八〇三)には、すでに労働者を雇い入れて綿打ち作業を行い、綿製品を出荷している。しかも、十六名から十八名の労働者を雇用し、農閑期の余業として行っているものの、家内工業的形態を取っている。このことについては後でふれることにする。ともあれ、綿の栽培は、多くの労力と多くの肥料を要する。その栽培は集約的であると同時に、綿花を収穫した後の畑に裏作を仕付けることもできるので、経営規模の小さい一般農民にとって、土地の有効利用をもたらす有利な作物であった。
 また、農閑期の余業として、綿繰りや綿打ちの作業によって現金収入を得ることが出来るのも、農村に綿の栽培を普及させることとなった。綿の栽培は、小作料を負担しても、綿を収穫した後の余業が家に居ながらにして可能なことと、現金収入を得られるということにより、小作農にとっても魅力的であったようである。
 上高根沢村の阿久津家の元治二年(一八六五)二月の「綿買入帳」(史料編Ⅱ・四九七頁)から、高根沢町域における綿の栽培村を見ていくと、7図のようである。この史料を見る限りでは、綿の栽培をしていた村は十二か村である。商品として販売した製品は、種綿・赤綿・繰り綿・綿織物・赤繰り綿・綿糸・綿実などである。

7図 元治2年綿栽培の村
上高根沢 阿久津恵一家文書(史料編Ⅱ・497頁から)

 
12表 寛政13~享和3年上高根沢村上金井、阿久津家の綿打ち仲間  単位:俵
地域名\年代寛政13年享和2年享和3年
(1801)(1802)(1803)
嶋ノ内110
簗瀬111
般若塚202
桑窪村121
寺渡戸村221
廻谷121
太田村111
栗ケ嶋村454
西根111
金井223
下平田村001
赤堀新田001
八ツ木村001
合計161718
合宿所栗ヶ嶋村下平田村金井
万吉宅源蔵宅常右衛門宅

出典:上高根沢 阿久津恵一家、寛政13年正月「綿打中間人数改帳」
注1.享和2年合計は、原文書では「18名」だが、明らかな集計ミスと思われるので訂正した。
注2.築瀬、般若塚、廻谷、西根、金井は上高根沢村の字。