綿織物業や製糸業の生産工程は、やがて分業化が進み、それぞれ専業となる時期が到来する。元治二年(一八六五)二月の『綿買入帳』(史料編Ⅱ・四九七頁)からも、それぞれの農家が農閑期を利用して、糸繰り作業や綿打ち・綿織物などの作業をしていたことがわかる。農家は、綿の栽培から綿織物の製品を生産するまでを家内工業の形態で行い、その製品を仲買人である上金井(上高根沢村)の阿久津家に買い取ってもらい、現金収入を得ていたのである。赤綿や繰り綿で仲買人に売るよりは、綿糸や綿織物の製品にして売る方が有利であることは当然であるが、機織り器を備えることは資金面の負担が重くなるものであった。
阿久津家は、各村の農民から買い入れた赤綿や繰り綿・種綿(種付き綿)を製品の綿として販売するために、農閑期に綿打ちをする人夫を雇っている(12表)。これによると、寛政十三年(一八〇一)には十六名、翌享和二年には十七名、享和三年には十八名の人夫を雇って、綿打ち作業を行っている。同家は、六十年以上もの間、「綿仲買人」としての商売をしているわけであるから、高根沢町域での綿栽培は、寛政年間(一七八九~一八〇〇)以前から行われていたと考えられる。
また、阿久津家は、綿の他に菜種・米・大麦なども買い入れており(第五章第一節第一項を参照のこと)、商売を広げていったようである。