日本で朝鮮種人参の栽培が行われるようになったのは、徳川八代将軍吉宗の時代からである。最初は江戸小石川薬草園(現東京都文京区)で試作されていたが、享保十四年(一七二九)に日光御領で栽培試作が実施された。その試作に成功するや、日光御領をはじめとして、その周辺の村々へ栽培を促したのである。
朝鮮種人参の栽培に最も適した土地が下野国であるとわかると、その栽培は急速に普及していった。特に日光・今市・鹿沼地域の村々では、栽培面積が増大していった。高根沢町域での朝鮮種人参栽培の初見は、宝暦期(一七五一~六三)である(史料編Ⅱ・四九二頁)。
朝鮮種人参栽培について、幕府は「御用作物」という名のもとに、栽培管理を厳重にした。朝鮮種人参は、種子を播き付けてから収穫まで四か年を要する作物であるが、播き付けてから発芽するまでに概ね半分となり、四年後の収穫に至るまでには、病虫害によりかなり減少するのが常であった。したがって、発芽時には「芽出し検分」があり、発芽数を記録することになっている。三年目には結実するので、その参実を採取し、粒数を確かめて役所へ報告する。この時期になると、参実の盗難があるので、栽培用の花壇(圃場)では厳重に囲いをめぐらし、その防止に努めなければならなかった。そのため、栽培に携わる農民は、朝鮮種人参を栽培する圃場の設計と、それに必要な一切の資財及び圃場の面積を記録して、役所へ提出することが義務づけられていた。
また、収穫した人参の種子(参実)や人参の根(参根)は、すべて幕府の買い上げとなるが、その上納及び販売についても細部にわたって統制されていた。参実の粒数や参根の量目は、記録して役所へ報告することが義務づけられていたのである。
朝鮮種人参栽培は、申請による許可制を採り、その栽培者を『御用参作人』と呼んで、身分や家柄などまで厳格な基準を設けていたようである。その上、朝鮮種人参の成育は、収穫までに四年を要したので、それに耐え得る資本を有する必要かあった。