ビューア該当ページ

御用参作の勝手作

765 ~ 766 / 899ページ
 朝鮮種人参の栽培について、今後勝手作でよいという触れ書が出たのは、寛政二年(一七九〇)十二月のことである(『栃木県史』史料編近世六・五六六頁)。それによると、
 
  朝鮮種人参は品不足のため高価であり、一般人が大病を患っても容易に購入することはできない。そのため、享保年中から国内で生産できるように試作を重ねた結果、増産に成功した。したがって、参作については御用作物から外し、朝鮮種人参の栽培と土根人参及び人参種子の譲渡や販売を自由にする。
 
というのである。
 下野国における朝鮮種人参の品質は良質で、世にその声価を高めてきたのは、幕府御用作物として厳しい管理下にあったからであった。今後は土根人参も種子も、播き付け量も栽培もすべて自由であるというのであるから、栽培管理に厳正を欠き、品質の低下は免れない結果となることは必定である。このことは、人参役人ばかりでなく、参作人の心配のたねとなった。野州産朝鮮種人参の品質を維持していくため、参作人や栽培に関わる人々の活動が、秘かに始められていた(熊田一著『野州一国御用作朝鮮種人参の歴史』八三頁)。
 人参役人及び参作人たちの悲願である、朝鮮種人参の栽培を幕府の御用作物として継続することは、「参作勝手作触」が出されてから九年後の寛政十一年(一七九九)に「再御用作」として認められた(『栃木県史』史料編近世六・五七四頁)。この時出された触れは、
 
  この度一同の願いの通り、御用参作人に認可するので、今後御用参作人として、御用花壇のことはもちろん、朝鮮種人参の勝手な譲渡や販売をしてはならない。
  もしそのようなことがあれば、厳しく取り調べ罰することを申し付けておく。
 
という内容である。ここに再び、朝鮮種人参が幕府の御用作物として認められ、人参役人及び参作人たちの切なる願いがかなえられたのである。
 それから四年後の享和三年(一八〇三)三月には、「朝鮮種人参下野一国御用作につき幕府触」が出され(『栃木県史』史料編近世六・五八三頁)、下野一国だけが朝鮮種人参を御用作物として栽培することが認められた。その内容は、次の通りである。
 
  朝鮮種人参の栽培ならびに売買について、これ以降自由勝手にしてよろしいという触れ書を寛政二年に出したが、この度人参御用につき、当分の間野州一国は、すべて御用作に申し付けるので、そのことをよく心得て人参役人のお達しに従うこと。右のことを野州の村々、御領は御代官、私領は領主・地頭へ、寺社領ともにもれることのないよう知らせること。
 
 この触れ書によって、下野一国だけは、幕末に至るまで朝鮮種人参の栽培を御用作物として継続していった。人参栽培についての管理も統制も以前通り強化された結果、良質の参根を上納し続け、明治維新を迎えることになるのである。