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戸田家の宇都宮入部

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 宝永七年(一七一〇)戸田忠真が越後国高田(新潟県)から宇都宮藩主として転封してきた。高六万七千八百五十石である。以後、戸田家は、一時期を除いて明治を迎えるまで宇都宮藩主として支配を続けていくことになった。宇都宮の大名家が次々と交代する時代は終わりを遂げた。また戸田家時代の宇都宮城は、老中などの幕府要職の住む有力な居城の一つとなったのである。
 高根沢地域は、それまで宇都宮の大名家が交代しても、宇都宮の城付領の一部として、多くは宇都宮藩領のまま継続してきた。ところが、戸田家は今までの宇都宮藩主の中では最も石高の小さい大名であったために、以後の高根沢の支配状況に大きな変化をもたらすことになった。
 近世初頭以来、戸田家が入部するまでの宇都宮藩各大名家の入部時点の規模(領知石高)を示すと次のようになる。
 
  奥平家昌 慶長六年(一六〇一)入部 領知高 十万石
  本多正純 元和五年(一六一九)入部 領知高 十五万五千石
  奥平忠昌 元和八年(一六二二)入部 領知高 十一万石
  松平忠弘 寛文八年(一六六八)入部 領知高 十五万石
  本多忠平 天和元年(一六八一)入部 領知高 十一万石
  奥平昌章 貞享二年(一六八五)入部 領知高 九万石
  阿部正邦 元禄十年(一六九七)入部 領知高 十万石
  戸田忠真 宝永七年(一七一〇)入部 領知高 六万七千八百五十石
 
 近世前半期の宇都宮藩主の中でもっとも長期間在封したのは、三期にわたり宇都宮藩主に就任した奥平家であった。奥平家時代の高根沢における宇都宮藩の支配地域を見てみよう。寛文四年(一六六四)奥平忠昌時代の宇都宮藩十一万石の領知目録(史料編Ⅱ・一二三頁)を見ると、塩谷郡では六十五か村の二万三千三百石余が宇都宮領であった。塩谷郡全体は元禄十四年(一七〇一)でも百四十九カ村、四万九千石余りであったので、約半分が宇都宮領であった。中でも高根沢地域は、伏久村、文挾村、亀梨村の三カ村を除くすべての村が宇都宮藩領であった。宇都宮藩領に含まれなかった三カ村の内、伏久村と文挾村の二カ村は幕末に至るまで喜連川藩領であり、他領になったことはない。亀梨村については、近世初頭は那須衆の一人の旗本千本家の領地であったが、千本家が改易された後は幕府天領の時代を経て、阿部正邦時代には宇都宮藩領になったこともあった。
 このように、戸田家が宇都宮に入ってくるまでの高根沢は、ほとんどすべてが宇都宮藩の支配を受けていたと言ってもよい。ところが、度重なる宇都宮藩主の交代、特に戸田家が入ったことにより、宇都宮領の範囲が大幅に縮小してしまった。その結果、高根沢地域には、宇都宮藩領に余ったいわば領主の空白地が生じ、その間隙を埋めるかのように、ここ高根沢には幕府天領や旗本領または他国の大名の飛地が置かれるようになっていったのである。十八世紀初めの宇都宮藩戸田家の成立は、ここ高根沢地域に分散錯綜した支配が確立した一つの画期となったと言うことができよう。