1図 旧英巌寺の戸田家墓所
宇都宮藩主となった戸田家は、元は代々三河国田原(愛知県)に居城を有する譜代の小大名であった。初代の宇都宮藩主となった忠真の父忠昌は、当初はわずか一万石の小大名にすぎなかったが、その後累進を重ね、寺社奉行、京都所司代、老中等の幕府の重職を歴任し、忠真に家督を受け継いだときには下総国佐倉城(千葉県)で七万千石余を領する有力な譜代大名になっていた。
戸田家宇都宮藩主の初代となったのが、忠昌の後を継いだ戸田忠真である。この忠真については、忠臣蔵の赤穂事件に関連したエピソードがよく知られている。戸田家系図(史料編Ⅱ・九二頁)では、この元禄十四年(一七〇一)の江戸城中の刃傷事件について「勅使御馳走浅野内匠頭長矩、殿中における喧嘩について、俄に右の代わりを仰せつけられる」と、簡単にふれられているのみである。若い長矩の起こした事件の後始末に、五十一歳の老練な忠真がかり出されたものであろう。その後、宝永七年(一七一〇)の宇都宮への領地替えを経て、忠真が老中に昇進したのは六十四歳の正徳四年(一七一四)になってからである。近世初頭の本多正純を別にすれば、宇都宮藩主として老中にまで昇進したのはこの忠真が最初であった。
戸田忠真は、吉宗を紀州家から迎えて徳川八代将軍にするのにあたって大きな働きをした譜代の重臣の一人であった。そのため忠真は将軍吉宗から厚く遇され、特別な働きがあった訳ではないのに七十九歳の老齢で死ぬまで老中の職におかれていた。その間、享保三年(一七一八)には下野河内郡内で一万石加増されて、宇都宮藩はすべて七万七千八百石余りを領する有力藩の一つになっていた。ただし、将軍吉宗の擁立に功のあった忠真ではあるが、前代の新井白石あるいは堀田正俊などと違って権勢をふるうことはなかったと評されている。
宇都宮藩主戸田家二代目が戸田忠余で、享保十四年(一七二九)から延享三年(一七四六)まで宇都宮藩主であった。次いで戸田忠盈(初めは忠辰と称す)が藩主となったが、間もなく寛延二年(一七四九)九州肥前国島原(長崎県)へと国替えを命ぜられて、戸田家の宇都宮時代は一時中断となったが、二十五年後の安永三年(一七七四)になり、忠盈の子の戸田忠寛が再び宇都宮藩主に復帰している。
忠寛は、宝暦四年(一七五四)に家督を継ぎ、安永三年には宇都宮藩主として下野国河内、芳賀、都賀、塩谷の四郡の内に七万七千八百五十石を領するようになった。宇都宮藩主となった忠寛は、奏者番から安永五年には寺社奉行となり、さらに大坂城代、京都所司代と、若手譜代大名のエリートコースを歩み幕府の要職を累進していった。その間、大坂城代、京都所司代の在任中には「領知が遠い故」または「難渋の村々」を理由に、産業が発達し経済力豊かな畿内地方への領地の一部交換も実現している(史料編Ⅱ・九七頁)。この畿内の領地支配は天明八年(一七八八)まで続いた。
寛政十年(一七九八)忠寛は隠居して、戸田忠翰が宇都宮藩主を継いだ。その後、文化八年(一八一一)には戸田忠延が、文政六年(一八二三)には戸田忠温が継いだ。
忠温は、天保十一年(一八四〇)寺社奉行に、さらに弘化二年(一八四五)からは老中へと進み、嘉永四年(一八五一)に五十一歳で没するまでその職にあった。その間の嘉永三年には、下野の領地の一部を豊かな河内国(大阪府)へと領地替えを実現している。
忠温の後は、嘉永四年には戸田忠明が、安政三年(一八五六)には戸田忠恕と相次いで宇都宮藩主となった。いずれもまだ幼少な藩主であった。
忠恕は、幕末の内憂外患の山積する中で大揺れにみまわれることになる。先ず元治元年(一八六四)の水戸天狗党の下野来襲とその追討への参戦が、幕府の怒りをかい処罰を招くことになった。翌慶応元年(一八六五)になると、戸田家は家臣から賊徒天狗党に味方したものがでたのを理由に、「家政向不行届き」として領地の二万七千八百五十石の没収と藩主忠恕に隠居と謹慎が命じられた。忠恕の苦境はそれだけでは終わらなかった。その後、慶応四年戊辰戦争が下野にも及ぶようになると、忠恕は引退した身でありながら非常事態として再び国政に協力するように命じられ、戦争の渦中に巻き込まれる。遂には山野の雨露にさらされる中で体調を崩し死去してしまう。わずか二十二歳のことであった。
忠恕の後を継いで最後の宇都宮藩主となったのが宇都宮戸田家十代目戸田忠友である。慶応元年、家督を相続した忠友に、減封した五万石の奥州棚倉(福島県)への国替えが命じられた。天狗党事件に対する明確な処罰の転封である。在地の村々では、村明細帳の作成を始めとする転封の準備が急ピッチで進められた。ただし、宇都宮藩の減封と転封の処分は実行はされなかった。後に戸田忠至と改名する家老の間瀬和三郎による山陵修理事業の功績に免じて取り止めとなったのである。しかし、忠友は一息つく間もなく戊辰戦争の渦中に突入したのは忠恕と同じであった。そして明治に入ると、版籍奉還から廃藩置県を経て宇都宮藩は終焉へと向かうのである。