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松平家の宇都宮転封

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2表 寛延2年(1749)宇都宮藩松平忠祗領
城付領下野国河内郡94村56,034石61,846石
同  塩谷郡12村5,812石
飛地領常陸国多賀郡9村1,710石23,582石
陸奥国信夫郡12村13,368石
出羽国村山郡10村8,505石
137村実高  85,428石

秋元典夫著「宇都宮藩に関する一考察」(『栃木県史研究・23』)
 
 寛延二年(一七四九)肥前島原藩主松平忠祗が転封を命じられて宇都宮へ入部してきた。この松平家は、三河以来の名門深溝松平として十八松平家の一つに数えられる有力譜代大名である。十七世紀半ばすぎに島原に入り、このときに至ったものである。
 松平家は高六万五千九百石余、領知は下野国河内郡、塩谷郡のほか、出羽国、陸奥国、常陸国と広く散在していた。なお、明和元年(一七六四)には、宇都宮藩は翌二年の徳川家康の百五十回忌の日光法会とその準備対応のためとして、陸奥、出羽の領知を堀田佐倉藩領である元宇都宮領の下野国塩谷郡・河内郡の内に移されている。
 松平家宇都宮藩は、島原時代とくらべて財政的にはるかに厳しい状況に陥った。宇都宮は、領知高は同じなのに、年貢収納高は島原時代の半減規模であった。逆に島原藩主となった戸田家には余裕ができた。戸田家は、この島原時代のことを「実に御当家空前絶後の黄金時代にて、殊に島原領は収納豊饒にして府庫充実し、家中の輩も上下共にその恵沢に浴し、生計余裕ありし」と記録する程であった(徳田浩淳著『史料宇都宮藩史』)。
 松平家は、ただちに倹約令を出し、また家臣の知行からの借り上げも実施した。さらに翌寛延三年には、田方検見のやり方と年貢米の納め方について詳細な「覚」(掟の触れ)(史料編Ⅱ・六五七頁)を出して農村支配の改革に乗り出した。この「新法」とも言うべき「覚」に対しては、各村の庄屋、組頭、頭百姓等から「天罰起請文」の形の誓約書をとって厳守することが命じられた。起請文は代官の命令で以後毎年提出させている。「覚」は、すでに(『栃木県史』通史編5・近世二)でも紹介されているように、その後の宇都宮藩政に大きな影響を与えることになる。
 「覚」は、先ず年貢の量を決定するため、その年の稲の生育状況を調査する検見法の変更を命じ、新たに坪苅りによる検見を採用した。検見は、庄屋等の村役人が適当な場所を選び実際に「坪苅り」を行ってその年の作柄を「合籾」として願い出る形式をとっている。ただし、この坪苅りだけにより年貢量が決まった訳ではない。藩の役人の方でも「定合」という作柄の基準を定めておいて、検見による「合籾」に制限を加え、年貢の増徴を図ったのである。
 「覚」の後半は、「納め方の事」として年貢納入法を改めている。年貢米は、従来とおりの「六合摺り」(一升の籾は六合の米になる、という計算法)による米納を採用した。ただし、これは直ちに変更され、新たに「五合摺り」による米納を命じた上に、「出目」という三勺三才の付加米を加えたのである。
 この新法による改革は、宝暦三年(一七五三)になると「六合摺り」の廃止を再確認すると共に、田方の年貢率(免)の引き上げと年貢減免の廃止を打ち出す「申渡しの覚え」となった。松平家のねらいは、寛延三年の新法による改革以来、巧妙な手段によって年貢の増徴を断行しようとしているのである。しかし、このような年貢増徴策は、この頃の度重なる天災や不作と相まって、領民の不満をかき立て、明和元年(一七六四)九月には、俗に「籾摺騒動」と呼ばれる宇都宮領最大の百姓一揆を引き起こすに至った。
 その間、松平忠祗は宝暦十二年に隠居し忠恕が後を継いだ。安永三年(一七七四)には忠恕は旧領の島原への国替えとなり、松平家の宇都宮時代は終わりをとげている。なお、島原に戻った忠恕が雲仙岳の大噴火のなかで死去するのは、後の寛政四年(一七九二)のことであった。

3図 島原城