安永三年(一七七四)戸田忠寛は宇都宮城への国替えを命じられ、入れ代わりに松平忠恕が島原城に戻ることになった。戸田家にとっては、実に二十五年ぶりの宇都宮への復帰であった。忠寛の多年にわたる宇都宮転封の願いが叶ったのである。『戸田御家記』によると、忠寛は家臣から「熱烈なる御役希望」と評され、宇都宮藩主になれば幕府要職へ昇進の道も開かれるはずと踏んでいた。
忠寛の領知は、下野国河内郡、都賀郡、芳賀郡、塩谷郡の四郡に七万七千八百五十石であった。なお、この転封に伴って従来の下野国塩谷郡ほかの佐倉藩領は出羽国に移されている。
宇都宮藩主の異動はこれが最後であり、以後国替えはなくなった。それに代わって、この後の領地の移動は、戸田家が有力譜代大名として幕閣に連なったときに、幕府に強力に働きかけて領知の一部について村替えを実現させるようになる。
それにしても、久しぶりに戻った宇都宮領は、想像以上に荒廃し、その対策が藩政の大きな課題であった。宇都宮藩は幕府からの拝借金の獲得に努め、また、地味が豊かで経済力の高い場所への村替えを希望する「亡村引換え願い」を繰り返すようになる。
天明二年(一七八二)忠寛が寺社奉行から大坂城代に転ずると、領知が遠いことを理由に、河内、都賀、芳賀、塩谷郡の四郡のうちから二万五千石を、大坂最寄りの河内国(大阪府)、播磨国(兵庫県)への村替えが実現した。このとき、高根沢では関俣村、中阿久津村、土室村、宝積寺村の四カ村が上知され、幕府代官の支配下に入った。忠寛は、一万両の拝借金を獲得した上に、初めて生産力の高い畿内の先進地域に所領を得るのに成功したのである(史料編Ⅱ・六四一頁)。さらに、天明四年に京都所司代に昇進すると、河内国、播磨国内の一万五百石の領地を、村方難渋を理由に別のさらに豊かな河内国、摂津国(大阪府)へと村替えしている。天明三年の浅間山大噴火に始まる天明の飢饉、毎年のような大凶作が打ち続く中で、戸田忠寛は幕府の権力者田沼意次に接近して要職を歴任し、それに伴った拝借金と村替えによって下野農村の荒廃がもたらす財政難を乗り切ろうとしていた。しかし、時代は天明から寛政に変わろうとしている、幕政も田沼の権力は急速に下り坂に差しかかっていた。ついに将軍家治の死去とともに意次は老中を罷免され失脚し、松平定信の寛政改革の時代へと移っていた。田沼派と目されていた忠寛にも粛清の手が伸び、天明七年の京都所司代罷免に続いて、翌月には畿内のすべての領地は元の下野に戻されてしまった。
しかし、宇都宮藩の沃地願望はこれだけでは終わらなかった。それが実現したのは戸田忠温の時代になってからである(史料編Ⅱ・六四二頁)。嘉永三年(一八五〇)老中に昇進した忠温に対し、「領分薄地、宿駅も多く行き届き難い」を理由に、かねてからの念願であった村替えが聞き届けられた。宇都宮領の河内、芳賀、塩谷郡の二十二か村が、河内国内の五千二百六十五石余に村替えとなった。このとき高根沢では土室村、関俣村が上知されて、代官小林藤之助の支配地となった。文久三年(一八六三)の「真岡代官引継ぎ申送書」には、このとき上知された村々の事情が細かく記録され、次の代官に引継がれている(史料編Ⅱ・六四二頁)。