ビューア該当ページ

徳川御三卿と一橋領の成立

778 ~ 779 / 899ページ

4図 一橋歴世系統図
辻達也編『新稿一橋徳川家記』(続群書類従完成会、一九八三年)

 
 一橋徳川家は、八代将軍徳川吉宗の第四子宗尹が初代で、同じく次男の田安宗武、九代将軍家重の次男の清水重好と合わせて御三卿と呼ばれた。徳川吉宗は御三家紀州徳川藩主から徳川宗家をついで将軍となり、将軍親政を行ったが、御三家の尾張徳川家や水戸徳川家と対立することも多く、自分の子孫の安泰をはかるために、徳川宗家のより近い親族として、御三卿を創設したとみられている。ただ御三家が高三十五万石ないし六十万石台の大大名であるのに対し、御三卿は最終的に十万石の領地を与えられたが、独立した大名ではなく、将軍家の一族という扱いで、これは幕末まで変わらなかった。
 宗尹は享保六年(一七二一)生まれ、同二十年に元服して徳川姓を許され、賄い料三千両を与えられた。ついで賄い米二万俵(のち三万俵)を与えられ、寛保元年(一七四一)に江戸城一橋門内の邸宅に移り、一家として独立した。延享三年(一七四六)に賄い領地として、武蔵・下野・下総・甲斐・和泉・播磨の六カ国で十万石を与えられた。一橋下野領もこの時に成立した(辻達也編『新稿一橋徳川家記』続群書類従完成会、一九八三年)。
 御三卿の役割は将軍の後継ぎを供給することで、一橋家からは、二代治済の長男家斉が十一代将軍に、九代慶喜が十五代将軍になっている。御三卿の後継ぎも将軍の息子や御三卿・御三家の少年があてられ、一橋家も血筋は断続しつつ、十代茂栄(前尾張藩主)で幕末を迎えている。御三卿の上級家臣には幕臣が出向の形で送り込まれていた。したがって領地の支配も大筋として幕領に準じていたが、二代治済の代や七代慶喜の時には、独自の政策が試みられた。