一橋家の財政は、領地からの年貢・雑税、幕府から家臣への俸禄の支給、貸付け金の利金などの収入で賄われていた。領地は備中・播磨・摂津・和泉・甲斐・武蔵・下総・下野・越後に散在し、四、五人の代官が二、三国を分担して担当していた。一橋家の家臣には、御付人・御付切・お抱入の三種があった。御付人は直参の幕臣で、俸禄は幕府から支給された。御付切と御抱入は、一橋家直属の家臣であるが、御付切の俸禄は幕府から支給され、御抱入の俸禄は一橋家の賄い料から支給された。また一橋家の上級家臣の経歴をみると、幕府勘定方から一橋家勘定方に移り、勘定奉行や郡奉行などを経て用人になっている者が多い。用人の在任期間は平均三年ほどで、その後は幕府の役職に戻るのが一般的である。要するに、一橋家の重要な役職は幕府よりの出向者で占められていたのである。
一橋家の支出は、当主家族の生活費、役所の経費、家臣への俸禄や給金などの他に、将軍はじめ徳川一門や諸大名との交際にともなう儀礼・贈答の支出が多く、一橋家の財政を圧迫する一因となっている。また屋敷が江戸の小石川・築地・浜町・永代などに分散していたことも経費の増大の一因となった。領地の災害や荒廃の救済のための貸付け金もかなりの額に達していた。天明年間に家臣三名の名で当主に提出された「御勝手向書上」によると、一橋家の財政は年間の年貢収入でもって年間の総経費を賄うのが原則であるが、そのためには諸役所の諸経費の削減が必至で、諸役所の活動に支障が生じている。諸経費の増加傾向の他に、一橋家の繁栄にともない、縁戚関係や交際の相手も増加し、また家臣も増加して財政を圧迫している。収入を上回る支出の穴埋めは、幕府よりの手当て金によっているのが現状であるといっている。一橋家創設から四十年もたたないうちに、財政困難に直面していたのである(『蓮田市史・近世資料編Ⅱ』第二章、一九九七年)。