ビューア該当ページ

一橋下野領農村の荒廃

784 ~ 785 / 899ページ
 一橋下野領の農村は十八世紀後半に手余り田畑の増大、戸数・人口の漸減など、いわゆる農村荒廃が進行した。具体的な数字をあげて検討してみよう。寛延二年(一七四九)「上高根沢村差出明細帳」によると、同村は本田百四十二町五反七畝、本畑百六十六町七畝九歩、新田畑七十八町九畝二歩、家数二百三十七軒、人数千二百五十一人、馬七十疋の大きな村である(史料編Ⅱ・一四頁)。ところが享和三年(一八〇三)ごろに、家数二百三十七軒、人数千百九十人、馬八十三疋が、天保三年(一八三二)に、家数百八十三軒、人数九百四人、馬九十四疋と、家数・人数とも大きく減少し、馬疋のみは増加している。また桑窪村の場合も、享和三年ごろに、家数八十七軒、人数四百十一人、馬三十疋が、天保三年に家数五十六軒、人数二百五十一人、馬四十五疋と、家数・人数とも大きく減少し、馬疋のみは増加している(史料編Ⅱ・七三三頁、七四四頁)。こうしたデータによると、十八世紀後半に漸進した農村荒廃を天明凶作が加速化したことはまちがいない(3表参照)。
 天明四年(一七八四)五月のことである。一橋関東領の支配を担当していた代官前野勘兵衛と地方改役矢口平兵衛らが家老の追及を受けている。前野と矢口が前年の凶作に際し、畑方の年貢を上司の決裁を受けずに減免し、村々に通知した点が追及されているのである。両人は災害をうけた村々の年貢納入を促進するために、慣行に基づいて年貢減免を決定し、村々に通知したと主張している。両人の処分については、当主の一橋治済が強い関心をもち、処分の軽重を具体的に指示している。その結果両人らへの処罰が決定された。その「処罰決裁書」によると、両人はともに、「心得違いの取り計らい方、不念の至りに付き、重くも仰せ付けらる可く候えども、格別の思し召しをもって、御目通り差し控えこれを仰せ付けらる」とされた。また旗奉行稲守三左衛門と地方改役小松多次兵衛は、「叱り置き候様」という処罰であった(史料編Ⅱ・七四九~七五二頁)。
 天明六年(一七八六)七月、凶作の様相が深まったことに対し、一橋治済は家老に農民の救済手当金を用意しておくために、急ぐ必要のない屋敷の普請・修復などの費用をはぶくことを指示している。同年十月末には、凶作と飢饉を避けられないことが明らかとなり、一橋治済は家老に町人より徴収した金銭を関東の所領農村への貸し出し手当として用意するとともに、他の地方からの年貢米を急夫食(急場の食料)手当にあてることを指示している。さらに同年初冬ごろ、一橋治済は家老に関東の所領への急夫食手当の支給はすんだが、甲斐・和泉などの所領も凶作となったので、関東に準じた対策をとるように指示している。これらの指示はいずれも一橋治済自筆の文書で残されており、一橋家第二代の当主で、十一代将軍家斉の実父である治済が、一橋家の財政や所領の支配について、細かく指示していたことがわかる(史料編Ⅱ・七五三~七五四頁)。