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村の荒廃のきざし

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 江戸時代の農村は、十八世紀の始めの享保時代ころまでは、農業生産力の向上に裏付けられてほぼ安定した状況をたもっていたといわれている。しかし、関東地方の農村では、享保をすぎたころから荒廃化とよばれる現象が各所に現れてくる。一般的には、それは享保末期の凶作が一つの大きな原因とされているが、荒廃の状況はそんな一時的なものでは終わらなかった。農村に商品経済が浸透するのに伴って村が大きく変質し、村内には田畑を集積した地主の成長、質屋、醸造業、穀物業などを営むものが誕生する一方で、田畑を手放し、潰れ百姓や欠落百姓として村を離れるものも多く出るようになってきた。その結果、村の軒数および人口が大幅に減少し、村内に手余り地といわれる耕作の放棄された荒れ地が発生するようになった。荒廃化とよばれる離村、離農者の激増を招く現象がこれである。
 荒廃化した農村では、潰れ百姓や欠落百姓の年貢、助郷役などの負担は残された農民が担うことになり、残された農民の生活を一層圧迫し、ぎりぎりの不安定なものにしてしまった。その結果、わずかな災害、不作があっても潰れ百姓に転落してしまい、多数の欠落百姓を生む危険性を常にはらむようになってしまった。
 さらにまた、年貢収納量も享保末年ころから減少傾向を示すようになる。その後年貢の増徴政策によって一時的な回復はあったものの、十八世紀中頃の宝暦年間以降になると年貢量の減少傾向は誰の目から見ても明らかなものになった。荒廃化による農業生産の不振がもたらしたものである。領主にとっては、一刻たりとも放置できる問題ではない。直ちに農村政策の転換を図らねばならないことであった。
 農村の荒廃化現象は、北関東、特に下野国では極端な形で現れた。それは下野の人口推移の中に端的に見ることができる。関口直太郎著『近世日本の人口構造』からみると1表のようである。下野の人口は、十八世紀前半の享保年間に五十六万人とピークを示し、以後減少の一途をたどり、十九世紀前半の天保年間には最低の三十四万人となっている。約百十年間で三十九パーセントの減少率であり、この数字は全国でも最悪であった。
 
1表 近世下野国の人口推移
調査年次下野の人口(参考)
人口(指数)減少数減少率全国の人口(指数)
享保6年(1721)560,020(100.0)26,065,425(100.0)
寛延3年(1750)554,261( 99.0)-5,759-0.3625,917,830( 99.4)
宝暦6年(1756)533,743( 95.3)-20,518-6.1726,070,712(100.1)
天明6年(1786)434,797( 77.6)-98,946-6.1825,086,466( 96.2)
寛政10年(1798)413,337( 73.8)-21,460-4.1125,471,033( 97.7)
文化元年(1804)404,495( 72.2)-8,842-3.5725,621,957( 98.3)
文政5年(1822)395,045( 70.5)-9,450-1.3026,602,110(102.1)
文政11年(1828)375,957( 67.1)-19,088-8.0527,201,400(104.4)
天保5年(1834)342,260( 61.1)-33,697-14.9427,063,907(103.8)
弘化3年(1846)378,665( 67.6)+36,405+8.8626,907,625(103.2)

注.減少率とは、人口千人当たりの1年間の減少数を示す。