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飢えと出奔人

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 江戸時代の自然は、時として暴威を振るうこともあった。年表を繰ってみると、将軍吉宗のときだけでも関東地方の台風襲来等の大被害の記録が連年のように繰り返されていた(『年表日本歴史5』筑摩書房)。
 
  享保 二年(一七一七)八月 関東地方大風雨。
  同  六年(一七二一)閏七月 江戸大風雨、大洪水。下野以下の東国に被害。
  同  八年(一七二三)八月 大雨で五十里湖決壊し、鬼怒川筋に大洪水。
  同 十三年(一七二八)九月 関東諸国に大風雨、大洪水。
  同 十七年(一七三二) 天下大飢饉。疫病流行。
            十六年から天候不順。十七年蝗大発生。西日本から近畿に迫り大飢饉となる。全国の餓死者一万二千人、飢人二百六十一万人。
  寛保 二年(一七四二)八月 関東諸国に大風雨、大洪水。下野・上野・武蔵の三か国の被害高八十万石。
 
 自然条件に左右される農業が生活の中心であった江戸時代にあっては、自然災害は農民たちの生活基盤そのものを危うくした。
 元文四年(一七三九)中柏崎村の願書は、七軒の百姓が毎日の食事にもこと欠く飢えの状況を訴えて夫食(食料)の借用を願い、さらに他の残りの者も夏までの食料が覚束ないと訴えている(史料編Ⅱ・六四九頁)。足らないのは夫食ばかりではない。延享四年(一七四七)の村々の廻状留め(史料編Ⅱ・六五〇頁)には、食料である雑穀の稗のほかに、種子籾までも拝借したと記録されている。飢えのために翌年の苗代に蒔くための種子籾まで使ってしまうほどの切羽詰まった状況を伝えている。
 さらにこの廻状留めには、上高根沢村を始めとする宇都宮領町村からの離村者が「欠落人」「出奔人」として書き留められている。欠落ちしたのは水呑、前地、譜代などの経済的な下層ばかりとは限らない。百姓の伜、庄屋の弟の子と村内では下層とは考えられない肩書をもった者も含まれていた。

1図 旧公民館に移築した中柏崎の郷倉
元来は、年貢の一時保管用倉庫であるが、後には備荒用の貯穀蔵としても使われた。