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天明の飢饉

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 後世に「天明の飢饉」として伝えられる十八世紀末の飢饉は、江戸時代でも最大級の全国的な大飢饉であった。飢饉は広範囲な社会不安をひきおこした。幕政にまで少なからず影響を与え、田沼意次政権の弱体化と失脚の一因ともなったといわれている。意次のもとで栄達を誇った宇都宮藩主戸田忠寛もまた影響を被った一人であった。
 天明の飢饉は、天明三年(一七八三)七月の浅間山の大噴火から始まった。噴火は関東以下東国各地の広範囲にわたり直接の降灰被害をもたらした。さらにその後も日照不足と雨天続きで気温が上がらず、初秋になっても低温で穀物も実らない冷害大凶作となった。 この惨状は「末代まで咄申し伝え候ように致すべきこと」(史料編Ⅱ・六五三頁)として各地で記録されている。村々では「飢人」の調査が行われ、夫食代金の拝借がなされている。このとき高根沢に隣接している狭間田村(現氏家町)では、何とか貯えのある者を除いて、四十二人の者については村役人の才覚をもって処置し、残りの八軒、三十三人が「飢人」とされた。飢人については、男子二十人には一日米二合ずつ、女子十三人には一日米一合ずつ、日数にしてそれぞれ六十日分の夫食米代金が拝借となった。
 大飢饉はこの年一年だけでは終わらずに、その後数年間にわたり慢性的に続いた。天明六年にはふたたび洪水に続いて冷害による大凶作が襲い、関東から東北にかけての未曾有の大飢饉に陥った。餓死者・疫病死者は東北地方を中心に、十三万人ともその二倍以上とも、さらに仙台藩だけでも餓死者六十万人とも伝えられている。
 天明の飢饉は、天明三年が卯の年にあたるところから「卯年の飢饉」として後々の世までも語り継がれることになる。黒羽藩家老鈴木武助の著した『農喩』も、まっ先に卯年の飢饉の恐ろしさをあげて、これに対する平生からの備えの必要性を農民たちに説きさとしたものであった。この文中には上州の高山彦九郎による奥州の飢饉の悲惨な状況の見聞が紹介され、一層の説得力をもたせている。

2図 天明6年の洪水被害調査書
表紙に7月13日~17日の激しい雨のことが記されている(上高根沢 佐間田勝美家文書)