天明の飢饉の最中、天明六年(一七八六)将軍家治の死とともに田沼意次政権は終わりを遂げ、松平定信の一党が政権の中心にすわった。その後の定信とその一党による政治を普通「寛政の改革」とよんでいるが、この改革は農政に力を入れたところに大きな特色があった。特に、天明の飢饉で人口減少が激しかった地域の復興、下野、常陸、陸奥の荒廃した農村人口を確保し、農村の安定化を目指した、いわゆる本百姓維持の政策を押し進めた。人が減ると年貢も減るからであった。
高根沢地域においてもこの趣旨にそった具体的な施策が試みられるようになった。
一橋領亀梨村では、他領への奉公人を村に引き戻すために、給金を雇い主に弁済するために領主から拝借金をしている。享和元年(一八〇一)の調査では、亀梨村から他領に奉公にでていたのは、成人男子二人が烏山の城下町に、同じく男子一人が宇都宮領関俣村にでていた。この三人を引き戻すために計十七両の引戻し手当金の借用を願いでるのである(史料編Ⅱ・六六三頁)。この三人のうち烏山町に奉公にでていた万吉は、九両の身代金(給金)三年季の契約であったが、この手当金の六両で亀梨村に戻ることになった(史料編Ⅱ・六六五頁)。
その後も一橋領では、他領へ出ていった奉公人を村に引き戻すための施策が繰り返し行われている。文政七年(一八二四)にも出奉公禁止のお触れがでた(史料編Ⅱ・七一九頁)。禁令を破ったときは出奉公人はもちろん、村役人、親類一同百日ずつの手鎖とある。縁組によって他領に出ることも禁止し、違反者には同じく百日ずつの手鎖の処罰とあった。
また同じ享和元年には、質入れされた農地の調査も行われた。亀梨村では「質地引戻し小前取調べ書上げ帳」が作成された。このとき、下田一反三畝十歩の土地が金五両二分、十年季で芦野領烏麦村・大田原藩領八ケ代村(共に現南那須町)に、下畑一反七畝歩が金六両、七年季で宇都宮藩領土室村に、下畑二反一畝歩が金七両、七年季で一橋領上柏崎村に質地となっていた(史料編Ⅱ・六六五頁)。質地流地の書き上げはその後も行われていた。
さらに、一橋領では享和三年(一八〇三)「荒地作付帳」が作成され、荒地改めのための役人の廻村をはじめ、勧農筋取調べの役人が毎年のように江戸から派遣されるなど、荒廃化した農村の復興の試みが繰り返されていった。
なお、一橋領の復興仕法の全体については、本章第三節で系統的に扱うことにする。