農村の安定化をめざした本百姓維持の政策は、幕府代官領において典型的に実施された。一橋家役人と幕府役人との間には人事交流があるためか、高根沢の一橋領においても典型的な本百姓維持策をみることができる。文政四年(一八二一)代官初鹿野此右衛門によって太田村にだされた「貧民お救い方の儀申渡し請書」にもその一例を見ることができる(史料編Ⅱ・六六一頁)。請書は、村方の状況について、病による死潰れ絶家がおびただしい上に、他の百姓も潰れ百姓の負担を引き受けるために一層の困窮がすすみ、人別の増える見通しもないと述べている。そこで格別の御仁恵として、次のような具体的な申し渡しがなされた。
① 懐妊届け。出産届けを提出させ、調査のうえ極貧のうちに懐妊し出産したときには金一両の出産入用手当を、出産の翌月から丸三年間は毎月米一斗の小児養育手当を支給する。あわせて間引きを厳禁する。
② 他村へ養子縁組、嫁入り等を禁止する。
③ 日々の農業出精を命じ、毎朝明け六つ時に村役人の取り計らいで寺の釣鐘をついて全村民が耕作、草刈り等を始めるようにし、時間とおり出ないものは処罰する。
④ 年間の休日を書き出させ、従来よりも減らすようにする。さらに、休日には各員に縄ない、むしろ、わらじ作り等をさせ、村役人が取り集めて売り払うようにする。
⑤ 小売り酒屋はなるべく止めさせる。今まで通り商い渡世をするものからは、来年からは年に金二分ずつ差し出させ、納入が難儀なものは渡世を止めさせること。また街道沿いの宿場同様の場所、河岸場付近のものからは銭三百文ずつ差し出させること。集まった金を利子付き貸し付けの積み金にし、その利子で村助成をする。
⑥ その他、ばくちの禁止、廻村した役人への贈り物等の禁止。
等々と、本百姓維持と村の安定化に向けた具体的政策が試みられることになった。特に一橋領では手当支給を中心とした小児養育仕法によって村の人別の増加をめざしていた。
ただし、この小児養育のお救い仕法はこのときが初めてではない。一橋領亀梨村では十二年前の文化六年(一八〇九)、さらに寛政十一年(一七九九)までさかのぼることができる。
また一橋領では、文政七年(一八二四)荒れ地起こし返しの手当支給や、潰れ百姓の跡地を入百姓が相続するときには、収穫時までの夫食代、家作代、農具代、他の諸経費等の手当を支給するなどと触れられていた。
これらの仕法実施中の一橋領では、勧農筋取調べの役人の廻村や、文政七年には仕法実施中ということで初鹿野此右衛門から遊山講をはじめ深夜までの飲酒、長話を禁じ、質素倹約を守る等のお触れがだされるなど、日常生活への影響も少なくなかった(史料編Ⅱ・七二〇頁)。