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公金の貸付け

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 幕府の財政は年貢の収入が基本をなすとは言いながら、時代とともに急をつげる台所事情から年貢以外の貨幣収入にも頼るようになった。特に、荒廃化した農村の復興仕法を実施しようにも復興資金となる財源の裏付けが必要であった。その一つとなったのが公金の貸付けによる利殖収入であった。公金貸付けは、幕府の低利による御拝借金政策(恩貸政策)の性格もあり、荒廃した農村救済を目的とする改革仕法にも大きく係わっていた。十八世紀末の寛政期の前後からは公金貸付けの重要性が大きくなってきた。
 ここでいう公金貸付けとは、低利の貸付け金そのものを救済等の仕法に使うものばかりではない。利付き貸付けによって生じた利子を救済資金に充てるという金融政策でもあった。公金貸付けの窓口となったのは当初はさまざまであったが、十九世紀になると次第に統合され、文化十四年(一八一七)になると関東周辺のものは江戸馬喰町御用屋敷で取り扱われるようになった。
 寛政元年(一七八九)「雀宮宿助成金拝借証文」(史料編Ⅱ・六七九頁)は、宝積寺村の百姓勘右衛門が、代官辻六郎左衛門から雀宮宿助成金のうちの金六両を一割の利率、返済は来年十二月までの条件で借用したものである。この借用には、質地証文が添付されて万一返済が滞ったときに備えていた。この借用金は、勘右衛門にとっては低利の拝借金であると同時に、公金貸付けとしてその利子は雀宮宿への助成金となっていたものであった。
 一橋領平田村が、野州五か村永続御貸附金として一橋領役所から金三十六両一分余を借用したのも、同じ性格であった。文政四年(一八二一)「御貸附金拝借証文」(史料編Ⅱ・六八一頁)がこれである。その借用条件は、返済期間を来年から天保二卯年までの十年間とし、返済が滞ったときは村中で引き受け、それでも滞れば質地を取り上げること、また貸付け名目を偽ったときは処罰するとしている。利率については明記されていないが、返済年賦額からみると返済総額は五十九両二分となり、利率は年約一割となっている。
 災害の救済のために使われた公金貸付けもあった。弘化三年(一八四六)旗本本多弥八郎知行所の亀梨村・上柏崎村願書がその例である(史料編Ⅱ・六八三頁)。願書は次のようにいっている。近年不作が続いたうえ、特に前年は凶作で難渋至極となってしまった。そこで弘化三年三月に上柏崎村・前高谷村・西高谷村の三か村で百三十両を借用した。三か村の「御用御貸附金拝借証文」には、利息は年一割の五か年賦、返済中に凶作があっても必ず返済し、滞ったときには担保である引当て質地で処理すること、又貸しの禁止等が定められている(史料編Ⅱ・六八四頁)。ところが同年四月に上柏崎村から火災がおこり、亀梨村・上柏崎村両村で六十七軒が焼失する大火となってしまった。領主に救済手当を嘆願したが、旗本も元々不如意の状況なので聞き届けることができない。そこで、馬喰町御貸附金百五十両を十年賦で借用の嘆願をすることになったのである。