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治安の悪化と文政の改革

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 天明の大飢饉以降、関東地方の農村では荒廃化が明らかになってくると共に、村々にも多数の無宿人が生まれ「渡世人」の横行が目にあまるようになった。治安の悪化が目立つようになったのだ。大石慎三郎氏は『日本の歴史・二〇』(小学館)において、これを一時的な現象ではなく、「体制の弱点」とよんでいる。その一例として、幕府から日本一の大盗人として全国に指名手配された日本左衛門の行動をあげることができよう。歌舞伎「白波五人男」の中では、「賊徒の張本日本駄右衛門」として見栄をきるこの盗賊のモデルは、十八世紀中頃の遠州(静岡県)を中心に、各地で警察権の盲点を巧みについて盗みを繰り返していた。日本左衛門は、天領や旗本領など武士のほとんどいない警察力の弱い村を集団で襲った。そのため、盗みに入られた家では助けはもちろん隣村へ知らせることもできなかったという。また、天領、旗本領、藩領の警察権がそれぞれ独立していたのに目をつけ、盗みが終わるといちはやく警察権の異なる他領に逃げ込んで悠々としていた。困り果てた村々では、連名して幕府に対し私領、天領、旗本領の支配に関係なく広域捜査をして、一味を捕らえて欲しいと嘆願するありさまであった。まさしく制度と法体制の欠陥が問題となっていた。
 日本左衛門事件は下野の高根沢のことではない。しかし、十九世紀の関東地方の治安の悪さは、人ごととは言っていられない。警察権の不備という体制の弱点は下野でも同様であった。
 そこで幕府は、文化二年(一八〇五)御取締筋御改革として関東取締出役を創設した。勘定奉行のもとに、代官配下の手付、手代の八人を出役にして、関東一円を私領、天領、旗本領の区別なく巡回させ、犯人逮捕にあたらせることにした。これが「八州廻り」であり、無宿人ほかの反社会的勢力の取締りを目的としたものであった。高根沢の一橋領村々にも、幕府老中から「御代官手付、手代共をたえず廻村させ、宜しからざるもの有り候はば私領、寺社領とも遠慮なく踏み込み召し捕らえさせ候」とお触れが伝えられている(史料編Ⅱ・七〇八頁)。
 しかし、このわずかな人数では、実際の効果をあげるには限界があった。有効な取締り方法の新設、全域にわたる警察制度等をつくりあげることが何よりも必要であった。それを具体化したのが、文政の改革とよばれているものである。