関東農村の建て直しを図ろうとしたときに、幕府は、荒廃化した農村の変質を示すものとして、農村内にいながら農業以外の職業や稼ぎに従事している農間余業の存在に注目した。阿部昭の著書『江戸のアウトロー―無宿と博徒』(講談社選書)は、関東取締出役であったものが幕府へ提出した上申書、抜本的な対策が必要との提言を紹介している。それは、民衆の害になりそうな社会の動向として、天明期以降の農村内部で商いの活発化したことをあげ警戒し、以前は宿場や在町が商いの中心であったのに、最近は商人が村の中に入り込むようになり、農民が分に不相応な贅沢や、奢侈に染まっている実態に着目したのである。本百姓体制の維持を目指す幕府にとっては、農間諸商人の進出は耕作されない手余り田畑を発生させるもとであり、奢りのもとと認識し、制限すべきものであった。
そこで幕府は、出役に命じて組合村を通じて農間余業の調査を実施した。文政十年(一八二七)「農間商人取調帳」がその一例である(史料編Ⅱ・六九九頁)。当時、宝積寺村では、総数七十六軒のうち二軒が居酒屋の農間商い渡世をしていると報告している。百姓太郎右衛門は十四年以前の文化十一年から、百姓利右衛門は十一年以前の文政元年からの営業であった。その他は、湯屋・髪結い屋・大小拵え・研ぎ屋・煮売り渡世は御座無く候う、としている。
ただし、この調査は、質問された商いについての有無を回答したもので、農間余業のすべてについて調査したものではないことに注意したい。その後、天保九年(一八三八)には古着屋・古鉄紙屑買いから大工渡世・紺屋渡世など、さらに調査範囲を広げて調査をおこなった。これ以外に宝積寺村でも、安永三年(一七七四)の村指出帳には船二十艘が記され、慶応元年(一八六五)の村明細書上帳には、大工三人、杣取り十八人が記れているなど、出役の余業調査以外にも多様な余業や稼ぎがあったことが推測される。
また、酒造業も改革組合の調査対象であった。慶応三年「下野国酒造株改め帳」には、高根沢でも二軒の造り酒屋が書上げられている(『栃木県史』史料編近世7・九四五頁』)。
上高根沢村組合
一橋領野州塩谷郡上高根沢村宇津権右衛門口
一、酒造株高三百石 酒造人 祐次郎
氏家・白沢両組合
戸田土佐守領分野州塩谷郡大谷村組頭
一、酒造株高四十石 酒造人 勝左衛門