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調達金仕法

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 近世の幕藩体制は、その成立当初から財政難に陥る可能性をもっていたが、特に中期以降になると凶作や飢饉が繰り返され、農村の荒廃化によって領主の財政は一層悪化していった。
 領主は、ともかく財政難を切り抜けるためのいろいろな増収策をとるようになった。
 天保十年(一八三九)「野州芳賀・塩谷両郡二拾五か村仕法積金村々出金帳」(史料編Ⅱ・六七六頁)は、荒廃している荒地を起こし返す見通しもないまま、負担軽減の嘆願のみを繰り返す村方から抜け出す方法を探っていた。そこで、村の有力者から合計六百両を上納させることにした。真岡代官の川崎平右衛門は、その六百両を貸付け金に廻し、その利息をもって村方の建て直し資金にしようとした。このとき、二拾五か村のうち最高の上納額は一橋領上高根沢村の宇津祐左衛門百五十両であった。
 文政十二年(一八二九)「御調達積金御請書取調べ帳」(史料編Ⅱ・六七二頁)は、宇都宮領宝積寺村が調達金上納を命ぜられたときに、困窮を理由として日々積金仕法の採用によって藩主の要望に応えようとしたものであった。この日々積金というのは、従来のように特定の富家から御用金を出させる代わりに、すべての村民から薄くて広い御用金の徴収法ということができよう。宝積寺村の日々積金は、病身、あき家などで免除された十二軒を除く全村民六十二軒が、日々銭十二文から一文ずつを納入する計画で、毎日六十二軒で銭約三百文ずつの積立て金をすることにしたのであった。
 安政五年(一八五八)の幕府代官領関俣村の荒地の起こし返し等の難村復興仕法に関連した縄索い仕法願書も日々積金と同じ性格とみてよい(史料編Ⅱ・六七一頁)。願書では先ず村の荒廃状況にふれている。天明の頃に家数五十軒余、人別三百五、六十人のものが、天保七年以降は潰れ百姓、転退百姓が続出して、安政の頃には家数二十軒余、人別百五十六人になってしまった。そこで村柄立ち直りの仕法を嘆願したところ、荒凶非常の備えということで、来年から十か年の間、五・六・十一・十二月の四か月を除いた毎年の八か月間に、十五歳以上六十歳以下の男性が夜業仕事で一日縄一房ずつを作ることが提案されてきた。復興資金導入と引き換えに、この縄索いの代金を役所に上納することにしたのであった。
 
3表 文政12年宝積寺村御調達積金取調帳
積金額日々積立金額
日々銭 12文2人24文
日々銭 9文6人54文
日々銭 7文11人77文
日々銭 5文16人80文
日々銭 4文6人24文
日々銭 3文6人18文
日々銭 2文4人8文
日々銭 1文10人10文
積 金 免 除12人0
家数合計 74軒295文