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天保の飢饉

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 近世下野農村の荒廃化は、十九世紀前半の文化・文政期から天保期のころにピークに達した。下野の人口は、天保五年(一八三四)の調査時点には三十四万人余と、十八世紀前半の享保期と比較するとマイナス三十九パーセントを示すようになってしまった。そのような中で、天保七年を頂点とする天保の大飢饉を迎えたのである。
 文政の末年ころは作物の作柄もよく、特に文政十二年(一八二九)などは村々の小道に米粒が散乱するほどの大豊作であった。ところが、翌天保元年に入ると一転して天候不順から不作となり、同二年には下野の田方大凶作といわれるほどの作柄になってしまった。天保四年になっても天候の不順は続き、関東地方の大風雨、東北地方の洪水によって、全国の作柄は例年の三~七分程になり、東日本一帯は大飢饉に陥った。翌五年になっても不作が続き、慢性的な大飢饉の様相を呈するようになり、天保七年を迎えることになった。七年になると天候不順により全国の作柄は実質三割以下といわれる程の全国的な大飢饉の惨状となった。天保四年「難渋の者救米控え」(史料編Ⅱ・六六六頁)は、この飢饉の最中の記録である。
 二宮尊徳が下野にやってきて活動するのは、ちょうどこのような時であった。荒廃した農村に対する大規模な復興事業が報徳仕法の名のもとに実施され、次第にその成果を上げるようになってくるのである。
 文政六年、尊徳は桜町の陣屋(現二宮町)で最初の報徳仕法を開始した。次いで天保飢饉の最中の茂木藩、烏山藩の立て直し仕法に取りかかる。烏山藩では飢饉で飢えた窮民の救済が急務となり、烏山町にお救い小屋を建てるなど、下野の各地で復興仕法が進められていった。ただし、高根沢でこの報徳仕法が実施されるのは、もう少し後になってからのことであった。