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窮民救済への褒賞

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5図 幕府の『孝義録』

 文化八年(一八一一)、宇都宮藩から『善行録』と名付ける書物が刊行され領内に広く配布された。宇都宮領内で善行をおこない褒賞されたものを集めた記録である。これは、寛政の改革のときに、幕府が孝行者または奇特なる者の言行をとり集めて『孝義録』を出版し、風俗矯正・民衆教化の施策として利用していたが、宇都宮藩もこれにならって領内の善行者を集め出版したものであった。宇都宮藩は、財政立て直しのために幕府から公金の拝借や経済力豊かな地方への村替え願いを繰り返す一方で、農村復興のための農民教化の重要性に着目し、具体的な教化の教科書となる『善行録』を編さんし配布したものであろう。
 幕府の『孝義録』全五十巻には、全国から善行者八千六百人余が選ばれ載せられていた。その中に、天明六年(一七八六)上高根沢村の名主二名が「奇特なる者」として賞された記録が収録されている。
 
  奇特者 一橋殿領分塩谷郡上高根沢村名主 阿久津半之助 五十歳
                         天明六年褒美
  奇特者 同領 塩谷郡上高根沢村名主 宇津権右衛門 三十二歳
                         天明六年褒美
 
 宇都宮藩の『善行録』上下二巻には、延享四年(一七四七)から文化六年までに宇都宮藩から善行を賞せられた百五十七人が収められていた。この中で『孝義録』と重複している者はわずか四名にすぎない。褒賞は、多くは米・金が与えられ、年貢課役の免除もあった。また村の上層に対しては苗字御免のこともあった。善行の内訳は、孝行が八十九名、農業出精が三十二名、奇特者十八名などとなっていた。「奇特者」とは、名主などの村の最上層の者が、災害、飢饉などの際に行なった救恤活動に対して褒賞するときに用いたものである。高根沢からは次のものが載せられていた。
 
  奇特者 塩谷郡関俣村百姓 権兵衛 五十六歳 文化二年十二月褒美
 
 なお、上高根沢村宇津家については、この後も窮民救済が奇特であるとした真岡代官の詳細な記録があり(史料編Ⅱ・六七〇頁)、宇津家の卓越した地位と経済力の一端を想像させる。記録によれば、宇津祐左衛門は、領主一橋家から褒美、扶持給与のほかに、以前から村々の困窮民に対し小児養育料、家の補修費、農馬買入金などの援助をし、殊に天保四巳年(一八三三)の凶作のときには、米、金等を施すなどの奇特な取り計らいがあったとして、翌五年に老中大久保加賀守忠真から褒美として一代の苗字帯刀御免を許されている。さらに天保九戊年にも、同七申年の飢饉に際しても難儀の者に対して米、金等を施すなど奇特な活動として、老中水野越前守忠邦の許可のもとに、代官から永々の苗字御免と孫代までの帯刀御免が言い渡されている。