天明期に最悪の事態にいたった一橋関東領の農村荒廃に対して、一橋家当主治済の指揮もあって、間もなく所領農村の改革仕法として、諸政策が採用された。ここでは主に高根沢町域でどのような施策が行われ、どのような効果をあげたか否かについて、主に一橋徳川家文書(茨城県立歴史館蔵)によって見てみよう。
最初に再度の凶作と飢饉に備えて囲穀の制度が採用された。最初の囲殼には、天明八年(一七八八)に返納された御救い籾・麦・稗があてられた。以後十年ごとに囲穀制が点検され、継承されたことは、寛政十年(一七九八)に作成された関東三国の一橋領村々の囲穀に関する文書で明らかである(史料編Ⅱ・七五六頁)。
寛政十年十二月、関東三国の一橋領で、酒造業に冥加金を課することが取り決められた。町域では上高根沢村の阿久津半之助のみが対象となっており、その酒造米高は五百石、冥加金は永七貫五百文(金七両二分)だった(史料編Ⅱ・七五五頁)。これと同時に一橋野州領で新規の水車営業者に運上永を課することが取り決められた。町域では平田村の組頭長左衛門のみが対象となり、所持している水車一輛につき永二百八十八文を課せられている(史料編Ⅱ・七五八頁)。なお一橋野州領村々の水車運上永の金額は、その後約五年ごとに改訂されているが、その金額は、文化十年(一八一三)までのところでは、やや減額される傾向にあった(史料編Ⅱ・七六一頁)。
一橋領農村の荒廃について、たとえば享和三年(一八〇三)五月、亀梨村名主の届け書によると、四町六反の水田のうち、田植えを終えたのは一町九反に過ぎず、荒地は二町七反に達している(史料編Ⅱ・七〇二頁)。こうした状況に対して、享和元年に、(一)他村への出奉公人の調査と引き戻し手当て金の貸与、(二)質地引き戻しの調査が行われている(史料編Ⅱ・六六三頁)。なお亀梨村の十九世紀初頭(享和三年ごろ)の概況は、村高二百四十三石四斗七升、田九町二反五畝、畑三十一町七反九畝、家数四十二軒、人別百六十一人、馬八匹である(史料編Ⅱ・七四一頁)。ついで享和三年から翌年(文化元年)にかけて、領主側からいくつかの勧農政策が打ち出された(史料編Ⅱ・七〇一頁)。(一)荒地改めのため、役人が廻村する。この廻村に先立ち、村々に「荒地作付帳」の作成が命じられている。これは荒廃の現状を把握して、対応策をたてる前提としようとしたものである。(二)水損の翌年の貯穀を延期する。たとえば享和二年は水損の年だったので、当年の貯穀は翌年の秋まで先送りになっている。(三)野州領農村への機織所の設置。これは商品生産の場を設けて、農民の貨幣獲得の機会を増大させようとしたものであろう。廻状では上高根沢村の宇津権右衛門屋敷内に機織所を設置することになっているが、実際に開設されたかどうかは不明である。(四)漆木の植え付け奨励。漆木は栽培に成功すれば、貨幣獲得の機会になるので奨励した。(五)農耕馬の買い入れ奨励。領主側は牝馬を買い入れることをすすめ、また別にかなりの牝馬を村に貸与している。牝馬を奨励しているのは、子馬の生産を期待してのことであろうが、農民側は、貸与の牝馬はともかく、自分持ちの馬が妊娠することは宿場の寄せ馬や農耕に支障がおこるので、牡馬との掛け合わせを拒んでいる。なお文化元年八月現在、亀梨村には、農家の買い入れ牝馬二匹(持ち主は名主と百姓代)、他に預かり牝馬七匹がいた。
ところで漆木の植え付け奨励の成果はどうであったろうか。文化六年(一八〇九)九月の届け書によると、文化元年より同三年までに亀梨村で植えられた漆の苗木は、千七百八十二本に達するが、そのうち千七百七本が枯れてしまい、成木となったのはわずか七五本にすぎない。漆木の植え付け奨励は、あまり成果をあげていない様子である(史料編Ⅱ・七一〇頁)。
文化六年九月には、回米その他について村々への指示のなかに、「一、小児当年出生書き上げの事。一、懐妊五か月以上、臨月までの分お届けの事。」という調査がある。さらに寛政十一年(一七九九)より昨年まで、小児養育手当てを支給された出生人の数と、そのうち何人が成長し、何人が死亡したかを届けさせており、領主側の育子政策への関心が持続していることがわかる。また文化七年四月と同八年閏二月に、勧農筋取調べ・田方植付け見分のため、代官等一行が総州・野州領を廻村している、その際、持高十石以下の農民で、所持地にかぎらず小作地をふくめて、作付けに精進し年貢納入の成績の良い者を取調べさせている。また寛政四年(一七九二)から同九年までの間に入百姓(他地域から導入する入植農民)を実現した村に対して、現在の入百姓の家数・人数・耕作面積を取調べさせている(史料編Ⅱ・七一一頁)。
文化十年(一八一三)十二月に、代官山下為之助が総州・野州一橋領三十三か村の手余り荒地の年貢減免をさらに十五年認めることを一橋家勘定所に提議して承認されているが、これによると耕地の荒廃が拡大していることに気づかされる(史料編Ⅱ・七六六頁)。同時に代官山下為之助が関東三国の一橋領村々で、飢饉に備えての囲殼を引き続き行うことを一橋家勘定所に提議して承認されている(史料編Ⅱ・七六八頁)。
文化十二年には、一橋家当主徳川治済が「一、百姓一人にては畑何反程は作り候者に候や。一、野州の内、手余り荒れ地へ大豆作り候儀、一反になりおよそ何程はでき候や。一、入り百姓等の義これまで度々これあり候えども、相続致しかね候あいだ、永続の主法、家一軒の当り何程。右の義あい調べ申し出候様奉行どもへ達すべく候。」という指示を自筆の書付けで出している。農村支配の具体面にまで口出しする当主の姿勢は健在である。ここでは荒廃が進行する下野領での畑作・大豆作の状況や入百姓の永続条件についての調査を命じている(史料編Ⅱ・七六九頁)。