江戸時代では、徒党・強訴などの農民一揆はきびしい処罰の対象となり、たとえ打ちこわしなどの行動に進まなくとも、首謀者には、磔・獄門などの極刑が課せられた。したがって、農民たちが多勢でこうした行動にでるには、よくよく差しせまった問題があったはずである。たとえば天侯不順で不作にもかかわらず、領主側が年貢の減免を認めなかったなどの事情があったはずである。ところが一橋徳川家文書(茨城県立歴史館蔵)にあたってみても、文政二年総州・野州一橋領の手余り荒地について、文化七年(一八一〇)より文政七年(一八二四)までの十五年間の年貢減免期間中に起し返された田畑を除いて、引き続き年貢を減免することを取り決めた文書三通がある(史料編Ⅱ・七七二~七七九頁)だけで、直接関連する史料を見つけることができなかった。
ところが、その後この事件の内容を直接示す史料を見いだすことができた。それは文政二年十月の一橋領村々強訴事件の首謀者にたいする判決を村々が承知した請書である(上高根沢 赤羽祐二郎家文書)。翌文政三年九月十三日に(一橋)領知役所に差し出された文書の写しで、各村で処罰された農民と村役人ら十一人が署名している。この文書の最初の部分が少し欠けているが、内容はほぼ次のように要約できる。
昨年村々の農民が年貢米の運送費用が農民の負担にされているのを不満に思い、領主に年貢米の運送費用を求めて起こした騒ぎ立ちにたいして、このたび判決を下す。下高根沢村の名主平兵衛は、年貢運送費用の訴訟を提案し、願書を作成したり、村々の農民に呼びかけたので、重い追放に処するところ、特別に野州一橋領よりの追放にする。同村の重左衛門は、村々の農民を集めてあおりたてたので、取り調べ中に病死しなければ、お仕置き(死刑)に相当する。その他上高根沢村の名主の一人宇津権右衛門は、平兵衛や重左衛門に同調して、村々から人々に集まるよう宣伝したので、田畑取り上げ、村からの追放に相当するが、当人の祖父が天明凶作の際に私財で多数の農民の飢えを救った功績があるので、苗字帯刀の特権を取り上げ、村役から外し、押し込みを命じる。太田村名主柳七には罰金銭三貫文を課し、上高根沢村のもう一人の名主にはお叱りの処置をとる。
この判決文により、一揆の目的が年貢米の運送費用の軽減を要求するものであったことが明らかとなった。また判決文では、本来はもっときびしい刑に処するところ、今年は前の一橋卿治済が、古稀(七十歳)を迎え、従一位に任じられるという慶事があったので、特に刑罰をゆるやかにしたことを強調している。ともあれなぞに包まれていた文政二年十月の農民一揆の原因・経過・結果がかなり明らかになってきた。
7図 文政3年 一橋領強訴につき村々請書