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一橋下野領の縮小

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 文政十年(一八二七)二月十八日、幕府は一橋領のうち遠江・武蔵・下野の三国にある三万石余の領地を上知し、かわりに摂津・備中・越後の三国で同じ石高の領地を与えた。また同時に当主斉礼への賄い料を二万一千俵増加し、付人には四千五百両を給することにした。こうした前例がない一橋家にたいする優遇措置は、実は前々主治済が現将軍家斉の実父としての権威にものをいわせて、農業生産力の低い関東の領地を、農業生産力の高い関西・山陽および米どころの北陸の領地と取り替えさせたものである。なお前々主治済は同じ二月二十日に七十七歳で没した(辻達也編『新稿一橋徳川家記』三〇九頁)。
 この領地替えで一橋野州領は三十二か村が九か村に減少するが、高根沢町域では、栗ケ嶋・平田・太田・寺渡戸・西高谷・前高谷・亀梨・柏崎村の八か村が幕領となり、上高根沢・桑窪村の二か村だけが一橋領に残された。この二か村が残された理由は明示されていないが、上高根沢村については、一橋領野州陣屋の所在地であることと、有力農民の宇津権右衛門家と阿久津半之助家の存在によるものであろう。特に宇津家については、御用金の要請などにこたえうる財力と毎年の宇津救命丸の献上を、一橋家が以後も必要としたからであろう。
 この領地替えは、その対象となった村々にとって予期しなかった事態だった。たとえば塩谷郡一橋領としてまとめて上納してきた運上永(金納の雑税)を分離しなければならなかった。そのため文政十一年十二月、上高根沢・栗ケ嶋・太田・西高谷・平田村の五か村で一年に永一貫三百九十九文二分(永一貫=千文=金一両)負担してきたものを分離し、今後幕領四か村は永七百五十五文二分、上高根沢村は永六百四十四文にすると、一橋領の地方役人初鹿野此右衛門が取り決めている(史料編Ⅱ・七八六頁)。
 また文政十一年六月八日、前年一橋領より幕領になった塩谷郡の八か村(全て高根沢町域)は、佐藤忠右衛門代官所へ次の願書を提出している。八か村は一橋領時代に農民経営の困難を救済するために借り入れていた拝借金の返済をせまられた。しかし、返済のめどがたたない八か村の村役人惣代は、代官所の添簡(口添え書)をもらって一橋領知役所に返済期限の延期を願い出たが許されず、やっと五月末までの猶予を取り付けて帰村した。しかし、当面返金の手立てを見いだせないので、秋の収穫期までの延期を願うことになり、現在の領主である代官所より了解をとりつけてくれるよう願い出たのである。この八か村の願いが一橋領知役所に聞き届けられたかどうか示す史料は見あたらないが、農業生産力の低さを理由に一橋領から切り離された村々の困惑はこのように大きかったのである(平田 加藤辰夫家文書「一橋領知時拝借金返済の月延べに付願書」)。