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寺田治兵衛の牢死

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 上高根沢の浄蓮寺に天保七年(一八三六)八月に当地で没した寺田治兵衛の墓がある。戒名は「練光院寺田南汀居士」で、地元の伝承では上方治兵衛と呼ばれている。西を向いた墓石は他の墓石とくらべてやや大きく、風格が感じられる。当時の住職行慶が記した墓碑銘には、「姓は寺田、諱は[欠字]、南汀と号す。練光はすなはちその亭名なり。泉州和泉郡吾孫子郷池浦村の人で、俗称は治兵衛、故ありて本州に来たり、羇途に病死す。時に年五十五、天保七年丙申秋八月二十三日なり。余その殯する所無きをあわれみ、院内の墳墓の側にこれを葬り、法諡練光院南汀居士という」とある。現在の大阪府泉大津市の人物が、なぜ当地で帰郷もかなわず没したのだろうか。
 寺田治兵衛正煕は泉州一橋領の豪農で、池浦村の庄屋を勤めていた。文政五年(一八二二)取締役に任命され、泉州一橋領の行政改革に力を注いでいた。たとえば組合村の経費を大幅に節減して、住民の負担を軽くしている。泉州一橋領は和泉国大鳥・泉両郡五十四か村(高一万六千百三十四石)で、農業生産力が高く、商品経済も盛んな土地だった。領内に被差別の村落もふくまれていた。そうしたM村落には神社がなかったのを、寺田治兵衛の尽力で以前あった小祠の再興というかたちで八坂神社がまつられることになった。周辺の村々や神職らから様々な妨害や非難があったが、寺田治兵衛は代官所や神社関係者の了解を取りつけたので、村落の過半の人々から感謝された。
 ところが商品経済の浸透が被差別の村落の人々の生活や意識を大きく変え、M村落のなかに村役人派と小前派の対立が激化した。小前派は村落が不相応の神社をもつことに反対し、寺田治兵衛を村役人派と結託したとして非難した。村々の役人らの間でも、組合村の経費を削減することが利権の侵害につながったことをうらんで、寺田治兵衛を代官所に訴える者が出た。彼らは多額の資金を使って代官らを味方に引き入れ、寺田治兵衛の失脚をはかった。その際M村落が幕府の方針を無視して神社をまつったことをむしかえし、寺田治兵衛の不正の一つに数えた。こうして寺田治兵衛は身を拘束され、天保五年に江戸へ送られ、ついで同じ領知の野州一橋領へ流された。家族らは多額の費用を使って寺田治兵衛を放免させようとしたがかなわず、家財を散逸させてしまった。これには寺田治兵衛の復帰が自分たちの利権の邪魔になることをおそれた村々の役人らの画策もあった。
 ところで上高根沢での寺田治兵衛の境遇はどのようであったかは明らかでないが、陣屋付属の牢に閉じこめられていたのであろうか。地元には色の黒い大男が寺田治兵衛の世話をしており、実はこの大男は狸が化けたものだったという話が伝えられている。寺田治兵衛は折からの飢饉で飢えに苦しみ、病死してしまうが、この時大勢の狸が黒い雲に乗って西の方へ飛びさったというのである。また寺田治兵衛の死は病死ではなく、飢饉のなかで罪人を養うことを負担に感じた陣屋の役人か村役人が毒をもったのだという話も伝えられている。いずれにしても、一橋領の行政改革につとめて住民の負担を大幅に減少したり、村落に神社を持つことができなかった人々の切なる願いをかなえさせた人物が、反対派の策略で遠い土地に流され、そこで無念の死を迎えたことは悲痛なことである(盛田嘉徳・岡本良一・森杉夫著『ある被差別部落の歴史』岩波新書、一九七九年、寺田培著『寺田治兵衛正煕とその後裔』一九九〇年)。

8図 上高根沢の淨蓮寺にある寺田治兵衛の墓