文政十年(一八二七)領地替えにより、一橋下野領は三十二か村が九か村に減少するが、以後の農村政策は引き続き荒廃した農村を復興することに重点がおかれていた。たとえば一橋総州・野州領では、文政五年(一八二二)から天保二年(一八三一)まで農村の荒廃を阻止する方法として、農民に縄をなわせ、その代金を積み立てて利息を活用してきたのをうけ、天保五年縄代金積み立ての元金七百両の利息三十五両を天保三年からさらに十年間、潰れ百姓株の再興や分家の取り立てにあてることを取り決めている。なおこの資金の貸し渡し・取り立て役に、総州では佐野村(現茨城県結城郡八千代町)の為我井弥次右衛門、野州では上高根沢村の宇津権右衛門が任命されている(史料編Ⅱ・七八六頁)。
一橋総州・野州領村々の小売酒屋が、文政五年から天保二年までの十年間の積金で縁組助成金に出資してきたのを受け継ぎ、天保五年に天保三年から十年間の積金を飢饉に備えての貯穀にあてることを取り決めている。小売酒屋の負担は、当初年間金二分だったが、天保三年以降は金一分となった。なお河岸場の村の小売酒屋の負担は、終始年間銭三百文だった(史料編Ⅱ・七八九頁)。また領主側は、天保五年一橋野州領六か村の百姓持林について、新たに年貢を賦課することを取り決めている。この時には農民側から年貢の上納を申し出た形になっている。同様に天保十年には、上高根沢村半之助組の百姓持林の年貢を新規に上納することが取り決められている(史料編Ⅱ・七九二頁)。